婁叡
婁 叡(ろう えい、? - 570年)は、北魏末から北斉にかけての軍人。北斉の外戚。字は仏仁[1][2][3]。本貫は太安郡狄那県[4][5]。婁昭君(武明婁皇后)の兄の子にあたる。
経歴
[編集]北魏の南部尚書の婁抜(婁壮)の子として生まれた。若くして弓射や乗馬を好み、高歓の下で帳内都督をつとめた[1][2][6]。中興2年(532年)、高歓が韓陵で爾朱氏を破る(韓陵の戦い)と、婁叡は開府儀同・驃騎大将軍となった[7]。掖県子に封じられ、光州刺史に累進した。任地にあって収奪をほしいままにして高澄の叱責を受けた。後に九門県公に封じられた。北斉が建国されると、領軍将軍の位を受け、安定侯の別封を受けた。瀛州刺史となったが、醜行は改まらなかった[1][2][8]。天保7年(556年)4月、魯陽蛮を討って撃破した[9][10][11]。皇建元年(560年)、東安王に封じられ、豊州刺史に任じられた[1][2][4]。大寧元年(561年)11月、司空となった[12][13][14]。河清元年(562年)7月、高帰彦が冀州で反乱を起こすと、婁叡は反乱の鎮圧にあたった。帰還すると、司徒公に任じられた[15][16][17]。河清3年(564年)、殺人の罪で尚書左丞の宋仲羨の弾劾を受けたが、赦免された。5月、太尉となった[18][19][20]。11月、北周軍を軹関で撃破し、北周の将軍の楊𢷋らを捕らえた[18][21][22]。大司馬となり、軍を率いて懸瓠におもむき、豫州の境に100日あまりとどまった。河清4年(565年)4月、法を犯して免官された[23][24][25]。天統元年(565年)4月、太尉として再起した[26][27][28]。天統2年(566年)10月、再び大司馬となった[29][30][31]。天統3年(567年)8月、太傅となった[32][33][34]。武平元年(570年)2月5日、死去した[35]。右丞相・朔州刺史の位を追贈された。諡は武恭王といった[36]。
子女
[編集]脚注
[編集]- ^ a b c d 氣賀澤 2021, p. 193.
- ^ a b c d e 北斉書 1972, p. 197.
- ^ 北史 1974, p. 1955.
- ^ a b 趙 2008, p. 441.
- ^ 墓誌による。『北斉書』と『北史』の婁昭伝では、代郡平城の人とする。
- ^ 北史 1974, p. 1955-1956.
- ^ 北斉書 1972, p. 666.
- ^ a b 北史 1974, p. 1956.
- ^ 氣賀澤 2021, p. 91.
- ^ 北斉書 1972, p. 61.
- ^ 北史 1974, p. 253.
- ^ 氣賀澤 2021, p. 117.
- ^ 北斉書 1972, p. 90.
- ^ 北史 1974, p. 282.
- ^ 氣賀澤 2021, pp. 118–119.
- ^ 北斉書 1972, p. 91.
- ^ 北史 1974, pp. 282–283.
- ^ a b 氣賀澤 2021, p. 121.
- ^ 北斉書 1972, pp. 92–93.
- ^ 北史 1974, p. 284.
- ^ 北斉書 1972, p. 93.
- ^ 北史 1974, p. 285.
- ^ 氣賀澤 2021, p. 123.
- ^ 北斉書 1972, p. 94.
- ^ 北史 1974, p. 286.
- ^ 氣賀澤 2021, p. 124.
- ^ 北斉書 1972, p. 97.
- ^ 北史 1974, p. 287.
- ^ 氣賀澤 2021, p. 125.
- ^ 北斉書 1972, p. 99.
- ^ 北史 1974, p. 288.
- ^ 氣賀澤 2021, p. 127.
- ^ 北斉書 1972, p. 100.
- ^ 北史 1974, p. 289.
- ^ 趙 2008, pp. 441–442.
- ^ 趙 2008, p. 442.
- ^ 氣賀澤 2021, p. 194.
伝記資料
[編集]参考文献
[編集]- 氣賀澤保規『中国史書入門 現代語訳北斉書』勉誠出版、2021年。ISBN 978-4-585-29612-6。
- 『北斉書』中華書局、1972年。ISBN 7-101-00314-1。
- 『北史』中華書局、1974年。ISBN 7-101-00318-4。
- 趙超『漢魏南北朝墓誌彙編』天津古籍出版社、2008年。ISBN 978-7-80696-503-0。