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奥山義章

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
奥山 義章
おくやま ぎしょう/よしあき
矢部信太郎 編『近代名士之面影 第一集』
生誕 嘉永3年11月29日
1851年1月1日
愛媛県 北宇和郡 吉田町
死没 明治45年(1912年7月5日
愛媛県 北宇和郡 吉田町
所属組織  大日本帝国陸軍
軍歴 1872年 - 1909年
兵科 歩兵
最終階級 陸軍少将
勲章 勲三等
出身校 陸軍戸山学校
除隊後 教育家
墓所 一乗寺 (宇和島市)
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奥山 義章(おくやま ぎしょう/よしあき、嘉永3年11月29日1851年1月1日〉 - 明治45年〈1912年7月5日)は日本軍人歩兵大佐大日本帝国第4軍歩兵大佐として活躍した後、郷里の教育にも力を尽くした。別称は義章(ぎしょう)。位階正五位

生涯

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嘉永3年(1851年)に、愛媛県吉田町に生まれる。

明治5年(1872年)に、東京に出て陸軍教導団に入る。その後の明治12年(1879年)に、選ばれて陸軍戸山学校に入学。明治25年(1892年)には、陸軍少佐に任ぜられる。明治27年(1894年)に、日清戦争に出征し、満洲国で戦う。その後、功績から、明治36年(1903年)大阪の司令官に補せられ、大佐に任命されたが、後に後備役に編入させられた。しかし、翌年の明治37年(1904年)の日露戦争に再び出征。第4軍歩兵大佐に任命された。また、戦後、義章の功績から、少将にも任命された。明治42年(1909年)に、大日本帝国陸軍を退役。

郷里に帰り、教育家として活躍。3年後の明治45年(1912年)に、病により逝去。

略歴

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参考文献

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  • 矢部信太郎編『近代名士之面影 第一集』竹帛社、1914年。