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奥山朝忠

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
奥山朝忠
時代 戦国時代 - 江戸時代前期
生誕 不明
死没 寛永6年4月19日1629年6月10日[1]
別名 六左衛門[2]
戒名 長久院殿奇峰道雲居士[1]
墓所 龍潭寺浜松市浜名区引佐町井伊谷[1][3]
主君 井伊直政直継(直勝)直孝
氏族 奥山氏(奥山六左衛門家)
父母 父:奥山朝宗(親秀)[4]
中野直之[5]
朝久[6]、朝景[6]、朝親[6]
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奥山 朝忠(おくやま ともただ)は、戦国時代から江戸時代にかけての武将遠江国引佐郡奥山郷の人。井伊氏庶流の実力者。六左衛門[2]とも。徳川四天王井伊直政の従兄弟にあたる。

人物

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遠江国引佐郡井伊谷を治める井伊氏の親類衆[注釈 1]にあたり、朝忠の父・朝宗井伊直政の母・おひよと兄妹(奥山朝利の子)である。永禄3年(1560年)、桶狭間の戦いで父・朝宗が戦死。永禄11年(1568年)に一度井伊家が瓦解した際も、他の大名に仕えることをせず、領内にいた[2]。直政の徳川家康への出仕後も井伊氏の家臣として直継直孝の彦根藩政期まで仕える。彦根藩は、直孝の大坂の陣における戦功により25万石を領することとなり、18万石当時に創築された彦根城を、石高にふさわしい規模とするための2度目の築城工事を元和2年(1616年)から元和8年(1622年)にかけて行ったが、その際、朝忠は2度目の工事の総奉行を務めた[7]

登場する作品

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脚注

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注釈

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  1. ^ 井伊氏の庶流・赤佐氏の庶流が奥山氏。
  2. ^ 奥山朝利の子としての登場。

出典

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参考文献

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  • 『龍潭寺文書』
  • 祖山法忍『井伊氏系図』。 浜松市立中央図書館 浜松市文化遺産デジタルアーカイブ
  • 功力君章『井伊年譜』 1巻。 国立国会図書館デジタルコレクション
  • 中村不能斎『彦根山由来記』1910年。 国立国会図書館デジタルコレクション
  • 『彦根山由来記』現代語版 第二版
  • 小和田哲男『争乱の地域史 西遠江を中心に』 小和田哲男著作集第四巻、清文堂出版、2001年。ISBN 978-4792404956 
  • 歴史読本』第50巻第12号、新人物往来社、2005年。 
  • 楠戸義昭『この一冊でよくわかる! 女城主・井伊直虎』PHP研究所PHP文庫〉、2016年。ISBN 978-4569765525 
  • 石田雅彦 著、井伊達夫 編『女城主井伊直虎 その謎と魅力』アスペクト、2016年。ISBN 978-4757224704