奥保夫
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奥 保夫 | |
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生誕 |
1883年12月5日 日本 東京府 |
死没 | 1948年10月11日(64歳没) |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 |
1905年 - 1936年 1937年 - 1939年 |
最終階級 | 陸軍少将 |
奥 保夫(おく やすお、1883年(明治16年)12月5日[1] - 1948年(昭和23年)10月11日[2])は、日本の陸軍軍人、華族。最終階級は陸軍少将、功級爵位は功三級伯爵[2][3]。
経歴
[編集]1883年(明治16年)に奥保鞏の長男として東京府で生まれた[1][2]。陸軍士官学校第17期、陸軍大学校第30期卒業[1]。1930年(昭和5年)3月6日に陸軍戸山学校教育部長に就任し[3]、8月1日に陸軍歩兵大佐に進級[3]。同年8月15日に伯爵を襲爵した[2]。1932年(昭和7年)8月に近衛歩兵第3連隊長に転じた[3]。
1935年(昭和10年)3月15日に陸軍少将に進級し[3]、歩兵第27旅団長に着任[1]。1936年(昭和11年)8月1日に待命[3]、8月28日に予備役に編入された[1]。1937年(昭和12年)9月30日に召集され歩兵第128旅団長(第10軍・第114師団)に就任し[1]、日中戦争に出動[1]。杭州湾に上陸し[1]、南京攻略戦では雨花台、中華門への突撃を敢行し武功をあげた[1]。その後第2軍隷下に編入され[1]、徐州会戦に出撃した[1]。1939年(昭和14年)3月9日に召集解除となった[1]。
1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[4]。
栄典
[編集]- 勲章等
- 1940年(昭和15年)8月15日 - 紀元二千六百年祝典記念章[5]
親族
[編集]- 父:奥保鞏 - 元帥陸軍大将[2]
- 母:茂(シゲ) - 原兵之丞長女[2]
- 夫人:義子(トモコ) - 甘露寺義長長女(1889年5月14日 - 1949年4月30日)[2]
- 長男:保城 - 陸軍騎兵少尉(1908年12月5日 - 1980年1月13日)[2]
- 長女:利子 - 生駒重幸夫人[2]
- 二男:保英[2]
- 二女:澄子 - 末松茂久夫人[2]
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 霞会館華族家系大成編輯委員会 編『平成新修旧華族家系大成 上巻』霞会館、1996年。ISBN 4642036709。
- 福川秀樹 編著『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。ISBN 4829502738。
- 外山操 編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。ISBN 4829500026。
日本の爵位 | ||
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先代 奥保鞏 |
伯爵 奥家第2代 1930年 - 1947年 |
次代 華族制度廃止 |