太秦供康
表示
太秦供康 うずまさ ともやす | |
---|---|
| |
生年月日 | 1866年12月5日 |
出生地 |
日本 山城国京都 (現・京都府京都市) |
没年月日 | 1925年1月30日(58歳没) |
出身校 | 陸軍士官学校 |
前職 | 陸軍歩兵少佐 |
所属政党 | 研究会 |
配偶者 | 太秦信子 |
親族 | 娘婿・平山洋三郎(貴族院議員) |
在任期間 | 1911年3月14日 - 1925年1月30日 |
太秦 供康(うずまさ ともやす、 1866年12月5日(慶応2年10月29日[1])- 1925年(大正14年)1月30日[1][2])は、明治から大正期の日本陸軍軍人、政治家、奈良華族。最終階級は陸軍歩兵少佐。貴族院男爵議員。旧姓・堀河[1]。
経歴
[編集]山城国京都で右近衛権佐・堀河親賀の三男として生まれ、元興福寺慈尊院住職・太秦供親の養子となり、養父の隠居に伴い明治5年5月4日(1872年6月9日)に家督を相続[1][3]。1875年(明治8年)3月、華族に列せられ、1884年(明治17年)7月8日、男爵を叙爵した[1][3][4]。
陸軍士官学校(旧10期)に入り[5]、1888年(明治21年)7月28日、歩兵少尉に任官[6]。以後、歩兵第37連隊中隊長、歩兵第49連隊大隊長、皇族附武官(彰仁親王附[7])、元帥副官、第1師管軍法会議判士長、天長節観兵式諸兵指揮官副官、被服装具陣具及び携帯食糧改良審査委員などを歴任[2][8]。歩兵少佐に昇進し、1908年(明治41年)予備役に編入された[2]。
1911年(明治44年)3月14日、貴族院男爵議員補欠選挙で当選し[9][10]、研究会に所属して活動し[2]、死去するまで在任した[2]。墓所は多磨霊園。
親族
[編集]脚注
[編集]参考文献
[編集]- 陸軍省編『陸軍現役将校同相当官実役停年名簿 明治36年7月1日調』陸軍省、1903年。
- 人事興信所編『人事興信録 第6版』人事興信所、1921年。
- 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
- 上田正昭他『日本人名大辞典』講談社、2001年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成 上巻』霞会館、1996年。
- 山崎正男編『陸軍士官学校』秋元書房、1969年。
日本の爵位 | ||
---|---|---|
先代 叙爵 |
男爵 太秦家初代 1884年 - 1925年 |
次代 太秦康光 |