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太秦供康

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
太秦供康
うずまさ ともやす
生年月日 1866年12月5日
出生地 日本の旗 日本 山城国京都
(現・京都府京都市
没年月日 (1925-01-30) 1925年1月30日(58歳没)
出身校 陸軍士官学校
前職 陸軍歩兵少佐
所属政党 研究会
配偶者 太秦信子
親族 娘婿・平山洋三郎(貴族院議員)

在任期間 1911年3月14日 - 1925年1月30日
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太秦 供康(うずまさ ともやす、 1866年12月5日慶応2年10月29日[1])- 1925年大正14年)1月30日[1][2])は、明治から大正期の日本陸軍軍人政治家奈良華族。最終階級は陸軍歩兵少佐貴族院男爵議員。旧姓・堀河[1]

経歴

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山城国京都右近衛権佐堀河親賀の三男として生まれ、元興福寺慈尊院住職・太秦供親の養子となり、養父の隠居に伴い明治5年5月4日1872年6月9日)に家督を相続[1][3]1875年(明治8年)3月、華族に列せられ、1884年(明治17年)7月8日、男爵を叙爵した[1][3][4]

陸軍士官学校(旧10期)に入り[5]1888年(明治21年)7月28日、歩兵少尉に任官[6]。以後、歩兵第37連隊中隊長、歩兵第49連隊大隊長、皇族附武官(彰仁親王[7])、元帥副官、第1師管軍法会議判士長、天長節観兵式諸兵指揮官副官、被服装具陣具及び携帯食糧改良審査委員などを歴任[2][8]。歩兵少佐に昇進し、1908年(明治41年)予備役に編入された[2]

1911年(明治44年)3月14日、貴族院男爵議員補欠選挙で当選し[9][10]研究会に所属して活動し[2]、死去するまで在任した[2]。墓所は多磨霊園

親族

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脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i 『平成新修旧華族家系大成 上巻』244頁。
  2. ^ a b c d e 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』65頁。
  3. ^ a b 『人事興信録』第6版 、う21頁。
  4. ^ 『官報』第308号、明治17年7月9日。
  5. ^ 『陸軍士官学校』230頁。
  6. ^ 『陸軍現役将校同相当官実役停年名簿 明治36年7月1日調』128頁。
  7. ^ 『官報』第4767号、明治32年5月25日。
  8. ^ 『日本人名大辞典』第276頁。
  9. ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、19頁。
  10. ^ 『官報』第8316号、明治44年3月15日。

参考文献

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  • 陸軍省編『陸軍現役将校同相当官実役停年名簿 明治36年7月1日調』陸軍省、1903年。
  • 人事興信所編『人事興信録 第6版』人事興信所、1921年。
  • 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
  • 上田正昭他『日本人名大辞典』講談社、2001年。
  • 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
  • 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成 上巻』霞会館、1996年。
  • 山崎正男編『陸軍士官学校』秋元書房、1969年。



日本の爵位
先代
叙爵
男爵
太秦家初代
1884年 - 1925年
次代
太秦康光