太祖兆佳城大戰
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「太祖兆佳城大戰」は、『滿洲實錄』に見える明万暦17年1589の戦役。
経緯
[編集]太祖兆佳城ニテ大戰ス
[編集]明万暦17年1589旧暦正月、建州女直酋長ヌルハチ (後の清太祖) は兆佳ジョオギャ城主・寧古親ニングチンを征討した。ヌルハチの配置した伏兵は、敵兵100人が城外に出てからもしばらく泳がせ、油断したところで矢を放ったため、敵兵は城内に逃げ戻ろうと、来た道を慌てて引き返した。城と敵群の間に立ちはだかるヌルハチは、独りで100人の敵兵めがけ突撃し、九人を手づから斬伐して、逃げ戻ろうとする敵兵を蹴散らした。[1][2]
太祖敵ヲ射テ旺善ヲ救フ
[編集]攻城戦は四日間に亘り、城のまさに陥落せんとするころ、ヌルハチ軍は戦利品や捕虜、家畜の分配に気が逸り、味方同士で掴みあいが始まった。それをみたヌルハチは侍従の鼐護ナイフに自らの甲冑を着せ、兵士たちを宥めに行かせたが、木乃伊取りが木乃伊になり帰ってこない。その間に敵兵が逃げようとしたため、自らの綿甲を巴爾太バルタイに着せ、ナイフに着せた甲冑を取りにいかせたが、木乃伊が一人増えただけにおわった。[1][2]
そうしているうちに、敵兵10人が突然襲撃をかけてきた。ヌルハチの族弟・王善ワンシャン[注 1]が敵兵に推し倒されまさに槍で突き殺されそうになった為、武装をしていないままのヌルハチは単身その救助に向かい、ワンシャンの上に跨る敵兵に一矢放った。矢は敵の額に命中、弦の音の鳴るがはやいか敵は斃れた。ワンシャンを救出したヌルハチは勢いそのままに城を陥し、ニングチンを斬伐して帰還した。[1][2]
→「太祖富爾佳齊大戰」も参照
脚註
[編集]典拠
[編集]註釈
[編集]文献
[編集]實錄
[編集]『明實錄』
- 顧秉謙, 他『神宗顯皇帝實錄』崇禎3年1630 (漢)
『清實錄』
- 編者不詳『滿洲實錄』乾隆46年1781 (漢)
- 『ᠮᠠᠨᠵᡠ ᡳ ᠶᠠᡵᡤᡳᠶᠠᠨ ᡴᠣᠣᠯᡳmanju i yargiyan kooli』乾隆46年1781 (満) *今西春秋訳版
- 今西春秋『満和蒙和対訳 満洲実録』刀水書房, 昭和13年1938訳, 1992年刊
- 『ᠮᠠᠨᠵᡠ ᡳ ᠶᠠᡵᡤᡳᠶᠠᠨ ᡴᠣᠣᠯᡳmanju i yargiyan kooli』乾隆46年1781 (満) *今西春秋訳版
- 覚羅氏勒德洪『太祖高皇帝實錄』崇徳元年1636 (漢)
史書
[編集]論文
[編集]- 『東洋学報』33 (2) 1951, 和田 清「〈論説〉清の太祖興起の事情について」
Web
[編集]- 栗林均「モンゴル諸語と満洲文語の資料検索システム」東北大学
- 「明實錄、朝鮮王朝実録、清實錄資料庫」中央研究院歴史語言研究所 (台湾)
- 「爱新觉罗宗谱网」辽宁满族经济文化发展协会