太田資言
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時代 | 江戸時代後期 |
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生誕 |
天明2年12月21日(1783年1月21日)[1] または安永8年(1779年)[2] |
死没 | 文化7年6月2日(1810年7月3日) |
別名 | 洋之進(通称)、資敬(初名) |
戒名 | 道円月成貝了院 |
墓所 | 静岡県三島市の妙法華寺 |
官位 | 従五位下、備後守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家斉 |
藩 | 遠江掛川藩主 |
氏族 | 太田氏 |
父母 |
父:太田資愛 養父:太田資順 |
兄弟 | 資武、資順、資言、正子、木下俊懋正室ら |
妻 | 牧野忠精の娘 |
子 |
太田資始正室 資始 |
太田 資言(おおた すけとき)は、江戸時代後期の大名。遠江国掛川藩4代藩主。通称は洋之進。官位は従五位下・備後守。掛川藩太田家8代。
略歴
[編集]2代藩主・太田資愛の四男。母は側室と言われている。正室は牧野忠精の娘。
先代藩主の兄・資順の養嗣子となり、文化5年(1808年)の資順の死去により跡を継いだ。しかし2年後の文化7年(1810年)6月2日(または6月17日)に29歳で死去し、跡を娘婿で養嗣子の資始が継いだ。
系譜
[編集]父母
正室
- 牧野忠精の娘
子女
- 太田資始正室
養子