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太田資言

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
太田資言
時代 江戸時代後期
生誕 天明2年12月21日1783年1月21日[1]
または安永8年(1779年[2]
死没 文化7年6月2日1810年7月3日
別名 洋之進(通称)、資敬(初名)
戒名 道円月成貝了院
墓所 静岡県三島市妙法華寺
官位 従五位下備後守
幕府 江戸幕府
主君 徳川家斉
遠江掛川藩
氏族 太田氏
父母 父:太田資愛
養父:太田資順
兄弟 資武資順資言、正子、木下俊懋正室ら
牧野忠精の娘
太田資始正室
資始
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太田 資言(おおた すけとき)は、江戸時代後期の大名遠江国掛川藩4代藩主。通称は洋之進。官位従五位下備後守。掛川藩太田家8代。

略歴

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2代藩主・太田資愛の四男。母は側室と言われている。正室は牧野忠精の娘。

先代藩主の兄・資順の養嗣子となり、文化5年(1808年)の資順の死去により跡を継いだ。しかし2年後の文化7年(1810年)6月2日(または6月17日)に29歳で死去し、跡を娘婿で養嗣子の資始が継いだ。

法号は道円月成貝了院。墓所は静岡県三島市妙法華寺

系譜

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父母

正室

子女

養子

脚注

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  1. ^ 太田資言』 - コトバンク
  2. ^ 寛政重修諸家譜 巻第二百五十四』より、寛政6年(1794年)に16歳との記述から逆算

外部リンク

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