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太田資功

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
太田資功
時代 江戸時代後期
生誕 文政10年6月1日1827年6月24日
死没 文久2年1月14日1862年2月12日
改名 新六郎(幼名)、資功
墓所 静岡県三島市妙法華寺
官位 従五位下摂津守備中守
幕府 江戸幕府 奏者番寺社奉行
主君 徳川家慶家定家茂
遠江掛川藩
氏族 太田氏
父母 父:太田資始
兄弟 資功秋元礼朝内藤政挙資美、宝、籌、相馬充胤継々室、短子、松平忠誠正室
青山忠良の娘
板倉勝弼夫人
資美
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太田 資功(おおた すけかつ)は、江戸時代後期の大名遠江国掛川藩6代藩主。官位従五位下摂津守備中守。掛川藩太田家10代。

略歴

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5代藩主・太田資始の長男。幼名は新六郎。

天保12年(1841年)3月25日、12代将軍・徳川家慶御目見する。同年6月10日、父・資始の隠居に伴い家督を継ぐ。同年12月16日、従五位下摂津守に叙任する。後に備中守に改める。弘化4年(1847年)5月26日、奏者番に就任する。嘉永2年(1849年)1月28日、寺社奉行見習を兼任する。嘉永3年9月1日、寺社奉行兼任となる。安政3年(1856年)9月18日、病気を理由にして寺社奉行を辞任する。

文久2年(1862年)正月14日、父に先立って36歳で死去し、跡を弟(資功の四男との説もある)で養嗣子の資美が継いだ。墓所は三島市妙法華寺

系譜

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父母

正室

子女

養子