太田資功
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時代 | 江戸時代後期 |
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生誕 | 文政10年6月1日(1827年6月24日) |
死没 | 文久2年1月14日(1862年2月12日) |
改名 | 新六郎(幼名)、資功 |
墓所 | 静岡県三島市の妙法華寺 |
官位 | 従五位下、摂津守、備中守 |
幕府 | 江戸幕府 奏者番、寺社奉行 |
主君 | 徳川家慶→家定→家茂 |
藩 | 遠江掛川藩主 |
氏族 | 太田氏 |
父母 | 父:太田資始 |
兄弟 | 資功、秋元礼朝、内藤政挙、資美、宝、籌、相馬充胤継々室、短子、松平忠誠正室 |
妻 | 青山忠良の娘 |
子 |
板倉勝弼夫人 資美 |
太田 資功(おおた すけかつ)は、江戸時代後期の大名。遠江国掛川藩6代藩主。官位は従五位下・摂津守、備中守。掛川藩太田家10代。
略歴
[編集]5代藩主・太田資始の長男。幼名は新六郎。
天保12年(1841年)3月25日、12代将軍・徳川家慶に御目見する。同年6月10日、父・資始の隠居に伴い家督を継ぐ。同年12月16日、従五位下摂津守に叙任する。後に備中守に改める。弘化4年(1847年)5月26日、奏者番に就任する。嘉永2年(1849年)1月28日、寺社奉行見習を兼任する。嘉永3年9月1日、寺社奉行兼任となる。安政3年(1856年)9月18日、病気を理由にして寺社奉行を辞任する。
文久2年(1862年)正月14日、父に先立って36歳で死去し、跡を弟(資功の四男との説もある)で養嗣子の資美が継いだ。墓所は三島市の妙法華寺。
系譜
[編集]父母
- 太田資始(父)
正室
- 操 ー 青山忠良の娘
子女
- 太田清子 ー 板倉勝弼正室
養子
- 太田資美 ー 実弟もしくは四男