太田勘太郎
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太田 勘太郎(おおた かんたろう、1874年〈明治7年〉6月5日 - 1937年〈昭和12年〉12月20日[1])は、日本の醸造家、実業家、政治家。福岡市会議長[2][3][4]、同市参事会員[5]。博多商工会議所会頭[3][4]、同常議員[5]。福岡商工会議所会頭[6]。福岡県多額納税者[3]。族籍は福岡県平民[7][8]。
人物
[編集]福岡県平民・太田與三郎の長男[2][7][8]。1892年、家督を相続した[7]。醤油醸造業を営み、会社重役であった[5]。八幡海陸物産市場代表取締役[3]、太田屋醤油店社長[2][4]、福岡県醤油同業組合長[2][3][6]、福岡銀行取締役[7]、九州勧業監査役などをつとめた[2][3][6]。また政界に進出し、福岡市会議長をつとめた[3]。福岡県在籍で、住所は福岡市蔵本町[3][5][6]。
家族・親族
[編集]- 太田家
1868年、太田与三郎が博多蔵本町において醤油醸造業を興し、その商号を「カクダイ醤油」と称した[9]。1892年、太田勘太郎が家業を継承した[9]。1931年、会社経営を法人組織に改め、「株式会社太田屋醤油店」を設立した[9]。1937年、太田六郎が代表取締役に就任した[9]。1969年、太田正太郎が代表取締役に就任した[9]。株式会社太田屋醤油店本社所在地は福岡市博多区美野島[9]。
- 父・與三郎(1851年 - ?)[2][3][8]
- 母・ヤエ(1855年 - ?、祖父・清吉の二女)[2][3]
- 妹
- 妻
- 養子・六郎(1894年 - ?、福岡、高木信吉の五男、長女・タキの夫[2][3]、太田屋醤油店代表取締役[9])
- 長女・タキ(1895年 - ?、養子・六郎の妻)[3]
- 男(1916年 - ?)[3]
- 二女(1917年 - ?)[3]
- 二男(1919年 - ?)[3]
- 三男(1921年 - )[3]
- 四男(1923年 - )[3]
- 五男(1925年 - )[3]
- 孫[3]
- 親戚
- 船津禾郎(福岡銀行取締役)[10]
脚注
[編集]- ^ 『博多中洲ものがたり 後編 (大正改元より空襲・終戦までの変遷)』455頁。
- ^ a b c d e f g h i j k 『人事興信録 第10版 上』オ177頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2018年12月9日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v 『人事興信録 第9版』オ164頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2018年5月15日閲覧。
- ^ a b c 『日本紳士録 第39版』福岡オ、ヲの部5頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2018年5月15日閲覧。
- ^ a b c d 『人事興信録 第8版』オ156頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2018年5月15日閲覧。
- ^ a b c d 『人事興信録 第11版』オ223頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2019年5月23日閲覧。
- ^ a b c d 『人事興信録 第5版』を141-142頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2018年5月15日閲覧。
- ^ a b c d 『人事興信録 第4版』を99頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2019年2月4日閲覧。
- ^ a b c d e f g h 沿革、株式会社太田屋醤油店公式サイト。
- ^ a b 『人事興信録 第7版』ふ58頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2018年12月10日閲覧。
参考文献
[編集]- 人事興信所編『人事興信録 第4版』人事興信所、1915年。
- 人事興信所編『人事興信録 第5版』人事興信所、1918年。
- 人事興信所編『人事興信録 第7版』人事興信所、1925年。
- 人事興信所編『人事興信録 第8版』人事興信所、1928年。
- 人事興信所編『人事興信録 第9版』人事興信所、1931年。
- 人事興信所編『人事興信録 第10版 上』人事興信所、1934年。
- 交詢社編『日本紳士録 第39版』交詢社、1935年。
- 人事興信所編『人事興信録 第11版 上』人事興信所、1937-1939年。
- 咲山恭三『博多中洲ものがたり 後編 (大正改元より空襲・終戦までの変遷)』文献出版、1980年。