太子古墳
表示
太子古墳 | |
---|---|
石室開口部付近 | |
別名 | 大師の唐櫃古墳/太師唐櫃古墳 |
所在地 | 茨城県かすみがうら市安食734-1 |
位置 | 北緯36度6分38.93秒 東経140度21分21.32秒 / 北緯36.1108139度 東経140.3559222度座標: 北緯36度6分38.93秒 東経140度21分21.32秒 / 北緯36.1108139度 東経140.3559222度 |
形状 | 前方後円墳? |
規模 | 墳丘長60m? |
埋葬施設 | 横穴式石室 |
出土品 | (伝)直刀・刀子・銀環・須恵器 |
築造時期 | 7世紀前半 |
史跡 | 茨城県指定史跡「太子古墳」 |
特記事項 | 装飾古墳 |
地図 |
太子古墳(たいしこふん、大師の唐櫃古墳)は、茨城県かすみがうら市安食(あんじき)にある古墳。形状は前方後円墳と推定される。茨城県指定史跡に指定されている。
概要
[編集]茨城県中南部、霞ヶ浦と菱木川に挟まれた台地上に築造された古墳である。地元では「太子のカロウド」と通称される。明治期の開墾で石室・副葬品が発見され、現在では墳丘は失われている[1]。
墳形は前方後円形で、墳丘長60メートル程度を測ったとされる[2][1]。埋葬施設は横穴式石室で、南方向に開口する。玄室の側面には朱で円文が5段に描かれた装飾古墳として知られる。副葬品として、明治期の開墾の際に直刀・刀子・銀環・須恵器等が出土したという。築造時期は古墳時代終末期の7世紀前半頃と推定される[1]。
古墳域は1977年(昭和52年)に茨城県指定史跡に指定されている[2]。
遺跡歴
[編集]- 1890年(明治23年)、開墾の際に石室の発見。直刀・刀子・銀環・須恵器等の出土[2]。
- 1895年(明治28年)、小室竜之助が『東京人類學會雜誌』に紹介[1]。
- 1896年(明治29年)、大野延太郎(雲外)が『東京人類學會雜誌』に装飾古墳として報告[1]。
- 1977年(昭和52年)5月2日、茨城県指定史跡に指定[2]。
埋葬施設
[編集]埋葬施設としては横穴式石室が構築されており、南方向に開口する。石室の規模は次の通り[2]。
- 石室全長:3.8メートル
- 玄室:長さ2.3メートル、高さ1.37メートル
- 羨道:長さ1.5メートル
石室は後円部に半地下式で構築されたと見られる[1]。石室の石材は変成岩[1]。玄室の奥壁は一枚石で、両側壁は石2枚によって構築される[2]。
玄室の両側面には朱で円文が5段に描かれる。現在ではほとんど消失しているが、明治期の報告に図面が残されている。
-
玄室の箱式石棺
-
玄室(羨道方向)
-
羨道(開口部方向)
-
羨道(玄室方向)
-
開口部
文化財
[編集]茨城県指定文化財
[編集]- 史跡
- 太子古墳 - 1977年(昭和52年)5月2日指定[2]。
脚注
[編集]参考文献
[編集](記事執筆に使用した文献)
- 史跡説明板(かすみがうら市教育委員会設置)
- 川崎純徳「太師唐櫃古墳」『日本古墳大辞典』東京堂出版、1989年。ISBN 4490102607。
関連文献
[編集](記事執筆に使用していない関連文献)
- 小室龍之助「常陸國霞蒲沿岸附近ニ於クル古跡」『東京人類學會雜誌』第10巻第106号、日本人類学会、1895年、137-142頁、doi:10.1537/ase1887.10.137、NAID 130004019947。
- 大野延太郎「常陸國霞カ浦沿岸旅行談」『東京人類學會雜誌』第11巻第121号、日本人類学会、1896年、286-291頁、doi:10.1537/ase1887.11.286、NAID 130004020023。