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天福寺 (土岐市)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
天福寺(天福禅寺)
所在地 岐阜県土岐市肥田町肥田1547-1
位置 北緯35度20分54.5秒 東経137度12分58.3秒 / 北緯35.348472度 東経137.216194度 / 35.348472; 137.216194座標: 北緯35度20分54.5秒 東経137度12分58.3秒 / 北緯35.348472度 東経137.216194度 / 35.348472; 137.216194
山号 正覚山
宗派 臨済宗妙心寺派
創建年 天福元年(1233年
開基 先覚周怙
中興年 寛永元年(1624年
中興 心田全以
別称 天福禅寺
法人番号 8200005008473
天福寺の位置(岐阜県内)
天福寺
天福寺
天福寺 (岐阜県)
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天福寺(てんぷくじ)は、岐阜県土岐市肥田にある臨済宗妙心寺派の寺院。山号は正覚山(しょうがくさん)。土岐肥田氏の菩提寺。

歴史

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寺伝によれば、天福元年(1233年)に、尾張中島郡妙興寺の末寺として建立され、寺号を天福寺とした[1]

貞治4年(1365年)、夢窓疎石の法嗣の先覚周恬が天福寺に住した。[2]

永和元年(1375年)12月5日、天龍寺の夢窓疎石の法嗣の空谷明應(佛日常光國師)が住し、四年後に退寺した[3]

応永4年(1397年)11月20日、可児郡瀬田の東栄寺で天福寺の和尚が開眼供養を行ったという記録もある[4]

永享8年(1436年)12月11日、足利義教が、天福寺の澄初首座を含む全国の数箇寺の住持に対して紫衣着用許可の公文に御判した。このことは天福寺の住持は将軍に御目見ができたということである。

長禄2年(1458年)8月7日、土岐氏室町幕府に対して天福寺を十刹にするように申請し、翌年9月20日に十刹に列せられた[5]

この時の住持は文仲西堂であったが、期を満たずして退山してしまったが、天福寺はこの時より官寺となり諸山の上に位し、文仲西堂を住持に任じて紫衣着用の勅許を与え、同年11月10日、足利義政が、承勲西堂を天福寺の住持とすることを承認し公文に御判した。

長禄4年(1460年)8月5日、足利義政は、月航洪運を天福寺の住持とすることを承認し公文に御判した。

寛正4年(1463年)11月14日、足利義政は、景宗西堂を天福寺の住持とすることを承認し公文に御判した。

天福寺・定林寺・明白寺の兵火による焼失

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永禄8年(1565年)、武田信玄の重臣であった秋山虎繁と野村長門守が土岐郡に侵攻し、神篦城付近で織田方と両軍が衝突した(高野口の戦い)。

秋山は配下の仁木(山中)藤九郎なる者に150騎を授けて土岐郡の寺社を悉く焼討した[6]。この時に天福寺・定林寺明白寺光善寺酒波神社が焼討されて天福寺は一旦廃寺となった。

その後、文禄2年(1593年)に観音堂のみが再建されて、元禄年間には土岐郡三十三所巡礼の二番札所となった。

昭和50年(1975年)に宗教法人となった。

元和7年(1621年)、住持に就任した心田全以によって、寛永元年(1624年)、現在地に本堂が再建され、その後、庫裏・鎮守・十王堂が創建された。

平成11年(1999年)、本堂を竣工した[7]

参考文献

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  • 横山住雄、2015、「臨済宗五山派・美濃如意輪寺と天福寺 (PDF) 」 、『花園大学国際禅学研究所論叢』(10)、花園大学国際禅学研究所、NAID 40020500858 pp. 55-82
  • 『土岐市史 1 (原始時代-関ケ原合戦)』第八編 鎌倉室町時代の宗教概観 第三章 郷土寺院の変遷 九 土岐氏の天福寺外護 p241~p245 土岐市史編纂委員会 1970年
  • 『土岐市史 1 (原始時代-関ケ原合戦)』第八編 鎌倉室町時代の宗教概観 第三章 郷土寺院の変遷 十 定林寺と天福寺の寺格 p245~p246 土岐市史編纂委員会 1970年
  • 『土岐市史 1 (原始時代-関ケ原合戦)』第十二編 近世封建社会 第一章 安土桃山時代 七 甲州軍の暴虐(神社仏閣を焼く) p396~p398 土岐市史編纂委員会 1970年
  • 『肥田町史』

脚注

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  1. ^ 横山住雄 2015.
  2. ^ 延寶傳燈録空華集
  3. ^ 常光録・天福寺語録・扶桑名藍・三國禅院名藍記
  4. ^ 碧山日件録
  5. ^ 蔭涼軒日禄
  6. ^ 酒波神社の棟札による永禄元年(1558年)説と永禄8年(1565年説)がある。
  7. ^ 正覚山天福寺:神社仏閣用材”. 勝野木材. 2018年8月20日閲覧。