光善寺 (瑞浪市)
光善寺 | |
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所在地 | 岐阜県瑞浪市土岐町6683 |
宗派 | 天台宗→臨済宗円覚寺派 |
開基 | 土岐光衡 |
別称 | 興禅寺 |
光善寺(こうぜんじ)は、かつて岐阜県瑞浪市土岐町中島に存在した、当初は天台宗、後に臨済宗の興禅寺に改号した寺院。現在は宝篋印塔と五輪塔群のみが残っている。
歴史
[編集]土岐氏の初代とされる土岐光衡は、鎌倉幕府創設時に御家人となり、一日市場館を本拠地とした。
そして天徳寺を氏寺、光善寺を土岐氏の菩提寺として天台宗の寺院を開基したとされる。土岐光衡の法号は「光善寺西淳」である。
平安時代に創建された天台宗の巨刹の法妙寺(桜堂薬師)が、光善寺から北北東方向に1.8kmの位置に存在していたため、関係があったことは明らかである。
建武年間(1334~1338年)、土岐光衡の曽孫の土岐頼貞[1]は光善寺を臨済宗に改宗して、興禅寺に改め、次に定林寺を開基して、土岐氏宗家が外護する寺院とした。
土岐頼貞と土岐頼遠の父子は、鎌倉で臨済宗に接し、蘭渓道隆(大覚禅師)、次いで無学祖元(佛光国師)に師事し、高弟の高峰顕日(佛國國師)に深く帰依して土岐氏一族の外護の宗旨とした。
定林寺は、無学祖元(佛光国師)を勧請開山、高峰顕日(佛國國師)を迎えて開山とし、夢窓疎石を二世住持としていることから、時期を前後して、高峰顕日(佛國國師)を迎えて、鎌倉の臨済宗円覚寺派の寺院として再開山したと考えられる。
戦国時代末期、武田氏の重臣の秋山虎繁が土岐郡に侵攻した際に、酒波神社・明白寺・天福寺・定林寺と共に焼討に遭い廃寺となった。
遺構
[編集]現在も道路を挟んで西側に、五輪塔5基と宝篋印塔4基、東側には五輪塔10基が整然と並んでいる。
道路西側の宝篋印塔のうち、一番奥に位置するものが土岐頼貞の墓と伝えられており、
基礎には「前伯州太守定林寺殿雲石存孝」「暦応二年 己卯 二月廿二日 亥刻 逝去」との文字が彫られている。
昭和31年(1956年)3月28日に岐阜県の文化財に指定された。
また、その他の石塔は頼貞以前の三代の土岐光定[2]・二代の土岐光行[3]・初代の土岐光衡[4]などの一族のものと伝えられている。
関連リンク
[編集]参考文献
[編集]- 『瑞浪市史 歴史編』 第四編 中世 第二章 室町時代の郷土 第三節 中世の宗教・文化 土岐氏と禅宗 光善寺・定林寺 p361~p364 瑞浪市 昭和49年
- 『瑞浪市史 歴史編』 第四編 中世 第二章 室町時代の郷土 第三節 中世の宗教・文化 他の古寺の考察 p367~p374 瑞浪市 昭和49年
- 『ふるさとの歴史 : 郷土学習のための各町概史 (瑞浪市郷土史シリーズ ; その1)』 土岐町概史 近世 市原村 土岐氏累代墓地と市原氏 p75 渡辺俊典 瑞浪市郷土史研究会 1983年
- 『瑞浪市歴史資料集 第1集』 光善寺跡五輪塔群雑感 狭川 真一 瑞浪市役所 2011年
- 『土岐市史 1 (原始時代-関ケ原合戦)』 第八編 鎌倉室町時代の宗教概観 第三章 郷土寺院の変遷 十一 光善寺 p246~p247 土岐市史編纂委員会 1970年