大門宏
| ||||
---|---|---|---|---|
基本情報 | ||||
本名 |
大門 宏 だいもん ひろし | |||
生年月日 | 1962年2月16日(62歳) | |||
国籍 | 日本 | |||
身長 | 173cm | |||
体重 | 60kg | |||
選手情報 | ||||
所属 | NIPPO CORPORATION | |||
分野 | ロードレース | |||
役割 | GM/DS | |||
最終更新日 2011年1月5日 |
大門 宏(だいもん ひろし、1962年2月16日[1] - )は、石川県出身の元自転車競技(ロードレース)選手、自転車競技指導者。現在はTEAM NIPPO-PROVENCE-PTS CONTI(SUI)の監督。日本を代表する名選手・名監督として知られている。
来歴
[編集]選手時代
[編集]中京大学時代にはインカレ(全日本大学対抗選手権自転車競技大会)で連覇[2]を果たし、1984年にシマノレーシングに加入。しかし1985年8月12日に日本航空123便が御巣鷹の尾根に墜落した事故で、辻昌憲が死亡した影響を受けて、同チームを離れることを決意。1986年より、スイスを拠点とするチームに移籍した[3]。それ以降、南スイスを拠点にスイスのチームで長年活躍する。
1990年は、スイスのMAVIC-GITANE・VC LUGANOで活動するが、日本で結成された最初の本格的なプロチームEPSON BOSCOにも所属した。
1991年、スイスのMAVIC GITAN-TICINO VITAに所属しながら、日本鋪道に加入。日本のレースでも走るようになり、圧倒的な成績を残す。同年の全日本選手権で優勝、トラックレース世界選手権・アマポイントレースで6位(この種目で日本人初の入賞)に入る。1992年のバルセロナオリンピックでもポイントレースに出場し11位。 また、ヨーロッパで日本のナショナルチームを結成、イタリアを中心としたレースで好成績を残した。
1994年に日本鋪道専属となり、1995年の選手兼任監督に就任。[4]。
監督時代
[編集]日本鋪道の選手兼任監督を経て、1996年より同チームのGM/監督専任となる。[4]。 チームNIPPOは大門の下でアジアでもトップクラスの成績を誇るチーム(UCIアジアツアーのチームランキング1位)へと成長した。また、全日本ナショナルチームの監督もしばしば引き受け、指揮をとる。
2007年には、浅田顕と共にNIPPOコーポレーション・梅丹本舗・エキップアサダの監督をも務めた。
2010年には若手育成のため、ベルギーにチームユーラシア・ムセウバイクスを発足させた。このチームには元世界チャンピオンのヨハン・ムセウがアドバイザーとして加わっている。[5]。
人物
[編集]日本きってのヨーロッパ通であり、エキップアサダ代表の浅田顕らと共に日本のロード界のため長年尽力してきたことで知られている。現在、トップシーンで活躍する日本人選手に、大門の世話になっていない選手はいない、と言われるほど地道に日本と世界の橋渡しを行っている。[6]。
大門の導きにより、スタッフ、選手、メディア、関係企業にいたるまで、多くの自転車関係者が世界へと進出している。自分のキャリアとして残らないようなことでも、日本の自転車競技界の為と思えばそこに手を差し伸べるような、影で暗躍するタイプの人物だと、元選手で現チームユーラシア監督の橋川健は評した。[7]。
一見怖そうで、J SPORTS等の解説でもムスッとしているが、実は意外と優しく、面倒見が良く、選手からの信頼も厚い。自分の事よりも、常にチーム、選手の事を考えている[8]。
脚注
[編集]- ^ Olympics at Sports-Reference.com Archived 2016年12月3日, at the Wayback Machine.
- ^ 体育会の歩み|中京大学体育会幹事会
- ^ a b 選手・スタッフ:TEAM NIPPO 2010年版 - 2011年1月5日閲覧
- ^ a b チーム概要:TEAM NIPPO - 2011年1月5日閲覧
- ^ チームユーラシア・ムセウバイクス発足 アーカイブ 2012年11月1日 - ウェイバックマシン - 2013年6月8日閲覧
- ^ NIPPOは日本と世界の橋渡し 世界のトップシーンで活躍できる日本人を育てる - 2013年6月8日閲覧
- ^ NIPPO大門宏監督がつのらせる危機感 「こんなのレースじゃない」 - 2013年6月11日閲覧
- ^ サイクリングPodcast~くりらじ~ - 2013年6月13日閲覧