誠拙周樗
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(大用国師から転送)
誠拙周樗 | |
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1745年7月28日(延享2年6月29日) -1820年8月6日(文政3年6月28日) | |
諡号 | 大用国師 |
尊称 | 無用道人 |
生地 | 伊予国宇和郡下灘浦(愛媛県宇和島市) |
没地 | 京都(京都府京都市) |
宗派 | 臨済宗円覚寺派 |
寺院 | 円覚寺 |
師 | 月船禅慧、東山周朝 |
著作 | 『正法眼』『雲門関』『日記』『語録』『詩歌集』『忘路集』『誠拙禅師集』 |
誠拙周樗(せいせつ しゅうちょ、1745年7月28日(延享2年6月29日)-1820年8月6日(文政3年6月28日))は、江戸時代中期から後期にかけての臨済宗の僧・歌人。円覚寺第189世住持[1]。伊予国宇和郡下灘浦(現・愛媛県宇和島市、旧北宇和郡津島町下灘)出身。無用道人と号し、諡号は大用国師。
人物
[編集]1745年(延享2年)に伊予に生まれ、7歳の時、宇和島の仏海寺に入り霊印和尚のもとで出家[2]。
1764年(明和元年)に当時の武蔵国久良岐郡永田村(現在の神奈川県横浜市南区永田北1丁目)の宝林寺に入り、月船禅慧に師事する。その後1777年(安永六年)に鎌倉の円覚寺(神奈川県鎌倉市山ノ内)仏日庵の東山周朝に師事してその法を継ぎ、1783年(天明3年)に円覚寺前堂首座に就任した。荒廃した円覚寺の伽藍や宗派の勢を復興し、現代の円覚寺の基礎を築いたと言われる[1]。晩年は臨済宗重鎮として京都に赴くことが多くなり、相国寺に移っている。
和歌を香川景樹に学び、歌集に『誠拙禅師集』がある。また茶道をよくし、松江藩(島根県)藩主松平不昧とも親交があった[1]。
文化財
[編集]- 誠拙和尚関係資料:横浜市指定有形文化財(歴史資料)、1991年(平成3年)11月1日指定[3]。玉泉寺(横浜市栄区金井町)所蔵。誠拙は、鎌倉に近い玉泉寺を度々訪れ、休息所として不顧庵・忘路亭を創建した。当寺には誠拙が着用した袈裟や、愛用の茶道具の風炉釜など、誠拙に関するまとまった資料が残されている[1]。
脚注
[編集]- ^ a b c d 栄の歴史編集委員会 2013, pp. 48–49.
- ^ “データベース『えひめの記憶』”. 愛媛県生涯学習センター. 2021年5月23日閲覧。
- ^ 横浜市教育委員会 2019, p. 18.