大河平隆利
表示
時代 | 戦国時代 |
---|---|
生誕 | 天文5年(1536年) |
死没 | 永禄6年1月28日(1563年2月20日) |
別名 | 通称:仲太左衛門 |
戒名 | 玉翁明珠居士 |
主君 | 北原兼守→島津義弘 |
氏族 | 大河平氏 |
父母 | 父:大河平隆充 |
兄弟 |
隆利、隆豊、 ナミ(皆越六郎左衛門室)、隆次 |
大河平 隆利(おこびら たかとし)は、戦国時代の武士。北原氏の家臣。
略歴
[編集]大河平氏は、元は菊池氏庶流八代氏で、肥後国八代に在ったが、大友氏による逼迫に耐えかね日向国の北原氏を頼り従属、隆利の祖父で大河平氏の祖となる大河平隆屋が真幸院の大河平[1]に移り住んだのが始まりである。永禄5年(1562年)にその隆屋が死去、父・隆充も永禄2年(1559年)に既に病死していたことから隆利が後を継いだ。
この頃、既に主家であった北原氏は、日向山東の伊東義祐に家を乗っ取られており、隆利は薩摩国の島津義弘に誼を通じるようになった。これに対し伊東義祐は、家臣・伊東杢右衛門を大河平氏の住まう大河平城に遣わし、隆利を調略しようとする。隆利がこれを断ると、杢右衛門はその晩に、潜ませていた450余名を率いて150名足らずが守る大河平城を夜襲する。大河平城は堅城ではないものの隆利はこれを防ぎきり、朝方に城を開いて打って出ると10余名を失ったものの、伊東勢50余名を討ち取りこれを退散せしめた。隆利はこの功により、島津義弘より鍋・灰塚・榎田の地、計2000石を賜り、更に大河平城の西の要害の地に新城を作るよう申し渡された。それが後の大河平氏の本城となる今城である。
しかし、翌永禄6年(1563年)、隆利は病により急死した。享年28。隆利には子がなく、また次弟・隆豊も既に戦死しており、末弟・隆次が後を継いだ。
脚注
[編集]出典
[編集]- 『えびの市史 上巻』(えびの市郷土史編さん委員会編)
- 『本藩人物誌』 鹿児島県史料集(13)(鹿児島県史料刊行委員会)