今城 (えびの市)
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今城 (宮崎県) | |
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城郭構造 | 山城 |
天守構造 | 建造されず |
築城主 | 大河平氏 |
築城年 | 永禄5年(1562年)頃 |
主な城主 | 大河平氏 |
廃城年 | 永禄7年(1564年)以降 |
遺構 | 曲輪 |
指定文化財 | 未指定 |
位置 | 北緯32度4分00.58秒 東経130度54分35.75秒 / 北緯32.0668278度 東経130.9099306度 |
地図 |
今城(いまじょう)は、宮崎県えびの市大河平にあった日本の城(山城)。
概要
[編集]大河平氏は当初、大河平城を居城としていたが、大河平城は堅城ではなかった事から、北原氏没落後に誼を通じた島津義弘により、大河平城と谷を挟んだ向こうの険阻な丘陵地へ、新たな城を築くよう命じられた。その結果、永禄5年(1562年)頃に築城されたのが今城である。
標高377メートルから386メートル、比高にして100メートルほどの2つの尾根[1]に跨って立地され、三方を絶壁と急斜面に囲まれた要害である。東方には、南北におよそ70メートル伸びた主郭、その西側斜面に3つの帯郭があり、西方の頭頂部に2つの郭、その北端の下部にD字型の郭、北方には今城の深谷を挟んだ西にある永野城[2]へと通じる堀を有した土橋があった。その、永野城との間の深谷の下には、川内川の源流(旧名:狗留孫川)が流れている。また、土塁跡は一切見受けられない。
永禄7年(1564年)5月29日、130余名が守る今城を伊東義祐率いる1,000余が攻撃、しかし、あまりの要害のため攻めあぐね、城主の大河平隆次へ降伏を勧告する方策をとる。隆次はこれを突っぱねて徹底抗戦する。これに義祐は、今城の隣の永野城を落とし、捕えた城兵により北側が一番攻めやすいと知ると、堀を埋めつつ城を攻撃する。隆次はやむなく城を打って出て、伊東勢500余名を討ったものの、全ての城兵が討ち死にを遂げた。なお、大河平氏は隆次の姉婿皆越六郎左衛門(後に大河平隆俊)により再興されている。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 『えびの市史 上巻』:えびの市郷土史編さん委員会
- 『えびの市の城館跡』:宮崎県えびの市教育委員会