大村純尹
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時代 | 江戸時代前期 - 中期 |
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生誕 | 寛文4年3月21日(1664年4月17日) |
死没 | 正徳2年10月14日(1712年11月12日) |
改名 | 源之助・数馬(幼名)、純尹 |
戒名 | 寛長院徳山日広大居士 |
墓所 |
東京都港区高輪の承教寺 東京都大田区の池上本門寺 |
官位 | 従五位下筑後守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川綱吉→家宣 |
藩 | 肥前大村藩主 |
氏族 | 大村氏 |
父母 | 父:大村純長、母:有馬康純の娘・亀 |
兄弟 | 生駒親興正室、純真、純尹、大田原清勝、福田長兼室、純庸、西郷寿員、五郎八、久世広隆正室、堀秀行室 |
妻 | 正室:織田信久の娘・蝶 |
子 |
亀次郎、源之助、大田原清在室 養子:純庸 |
大村 純尹(おおむら すみまさ)は、肥前国大村藩の第5代藩主。
生涯
[編集]寛文4年(1664年)3月21日、第4代藩主・大村純長の次男として江戸藩邸で生まれた。兄の純真が廃嫡されたことにより、元禄2年(1689年)4月26日に世子に指名され、12月27日に従五位下・筑後守に叙位・任官された。宝永3年(1706年)10月、父の死去により家督を継いだ。このとき、異母弟の純庸に3000石を分与している。宝永7年(1710年)10月にこの純庸を養嗣子として幕府に届けている。
藩財政窮乏のため、家臣団のリストラを行なった。しかし幕府の手伝い普請、軍役、参勤交代による出費で財政的にはさらに苦しんだ。このため新田開発や年貢増徴を行なうなどしたが、凶作や捕鯨業の不振などもあって、借金を何度も行なっている。しかし、あまりに借金を何度も行なったため、遂には商人から拒絶されたこともあるといわれる。
正徳2年(1712年)10月14日に江戸で死去した。享年49。実子は全て早世したため、異母弟で養子の純庸が跡を継いだ。
系譜
[編集]父母
正室
- 蝶 ー 織田信久の娘
子女
- 大村亀次郎
- 大村源之助
- 娘、生母は蝶(正室)
- 大田原清在室
養子
- 大村純庸 ー 実弟