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大村純尹

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
大村純尹
時代 江戸時代前期 - 中期
生誕 寛文4年3月21日1664年4月17日
死没 正徳2年10月14日1712年11月12日
改名 源之助・数馬(幼名)、純尹
戒名 寛長院徳山日広大居士
墓所 東京都港区高輪の承教寺
東京都大田区池上本門寺
官位 従五位下筑後守
幕府 江戸幕府
主君 徳川綱吉家宣
肥前大村藩
氏族 大村氏
父母 大村純長有馬康純の娘・亀
兄弟 生駒親興正室、純真純尹大田原清勝福田長兼室、純庸西郷寿員、五郎八、久世広隆正室、堀秀行
正室織田信久の娘・
亀次郎、源之助、大田原清在
養子純庸
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大村 純尹(おおむら すみまさ)は、肥前国大村藩の第5代藩主

生涯

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寛文4年(1664年)3月21日、第4代藩主・大村純長の次男として江戸藩邸で生まれた。兄の純真廃嫡されたことにより、元禄2年(1689年)4月26日に世子に指名され、12月27日に従五位下・筑後守に叙位任官された。宝永3年(1706年)10月、父の死去により家督を継いだ。このとき、異母弟の純庸に3000石を分与している。宝永7年(1710年)10月にこの純庸を養嗣子として幕府に届けている。

藩財政窮乏のため、家臣団のリストラを行なった。しかし幕府の手伝い普請、軍役、参勤交代による出費で財政的にはさらに苦しんだ。このため新田開発や年貢増徴を行なうなどしたが、凶作や捕鯨業の不振などもあって、借金を何度も行なっている。しかし、あまりに借金を何度も行なったため、遂には商人から拒絶されたこともあるといわれる。

正徳2年(1712年)10月14日に江戸で死去した。享年49。実子は全て早世したため、異母弟で養子の純庸が跡を継いだ。

系譜

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父母

正室

子女

  • 大村亀次郎
  • 大村源之助
  • 娘、生母は蝶(正室)
  • 大田原清在

養子