大島雄次
おおしま ゆうじ 大島 雄次 | |
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生誕 |
1929年10月25日 日本・富山県 |
死没 | 2021年10月5日(91歳没) |
国籍 | 日本 |
出身校 | 法政大学大学院社会科学研究科 |
職業 | 実業家 |
活動期間 | 1954年 - |
肩書き | 安田生命名誉顧問 |
任期 | 1993年 - 1999年(社長) |
前任者 | 岡本則一 |
後任者 | 宮本三喜彦 |
栄誉 | 勲三等旭日中綬章(2001年) |
大島 雄次(大嶋 雄次[1]、おおしま ゆうじ、1929年〈昭和4年〉10月25日[2] - 2021年〈令和3年〉10月5日) は、日本の実業家。明治安田生命名誉顧問[3]。富山県出身。
来歴・人物
[編集]安田財閥の創設者、安田善次郎の生家から20分ほどの町で生まれる[4]。
1947年(昭和22年)法政大学予科入学。1952年(昭和27年)同大法学部法律学科卒業。1954年(昭和29年)同大大学院社会科学研究科私法専攻修士課程修了[2]。法政大学在学中は、法政大学弁論部に所属していた。
一時は大学に残ることまで考えたが、郷里の大先輩である安田の名前に親近感を覚え[4]、安田生命保険相互会社に入社。
阪神支社長等を経て、1979年(昭和54年)取締役、1983年(昭和58年)常務取締役、1988年(昭和63年)専務取締役資産運用本部長委嘱、1991年(平成3年)取締役副社長営業総局長委嘱を担い[2]、「営業の鬼」として名をはせた[4]。
1993年(平成5年)代表取締役社長となる。1997年(平成9年)11月、金融機関の経営破綻が相次ぎ、山一證券が自主廃業すると「次に破綻する金融機関は同じ芙蓉グループ系の安田信託銀行」が市場の共通認識になった[5]。そんな中、安田信託社長の立川雅美から支援要請の電話を受けた大島は、二つ返事で、安田信託支援を約束。直ちに富士銀行頭取の山本恵朗と連絡を取り、富士銀本店に立川を呼び、他の芙蓉トップにも声をかけ、500億円の第三者割当増資の道筋をつけ安田信託救済ではリード役をかった[5]。
1999年(平成11年)代表取締役会長に退く[6]。2001年(平成13年)、勲三等旭日中綬章受章[7]。
2021年10月5日、老衰のため死去[6]。死没日をもって従四位に叙される[1]。
脚注
[編集]- ^ a b 『官報』第614号9頁 令和3年11月11日号
- ^ a b c 日本金融名鑑 1994年版(第34版)下巻 1993, p. 317.
- ^ “コーポレートガバナンスに関する報告書”. 明治安田生命. p. 12 (2021年7月2日). 2021年10月13日閲覧。
- ^ a b c 「NEWトップ 安田生命社長に就任する、大島雄次氏 契約件数より収益」『毎日新聞』8頁 1993年2月27日
- ^ a b 「記者の見た20年(2)97-98年、安田信託救済 迫る危機、芙蓉動く」『日経金融新聞』3頁 2008年1月17日
- ^ a b “大島雄次氏が死去 元安田生命保険(現明治安田生命保険)社長”. 日本経済新聞. (2021年10月12日) 2021年10月13日閲覧。
- ^ 「2001年秋の叙勲 勲三等以上と在外邦人、外国人叙勲の受章者一覧」『読売新聞』2001年11月3日朝刊
参考文献
[編集]- 『日本金融名鑑 1994年版(第34版)下巻』日本金融通信社、1993年9月。
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