大岡忠喜
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(大岡忠善から転送)
時代 | 江戸時代中期 - 後期 |
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生誕 | 元文3年11月27日(1739年1月6日) |
死没 | 文化3年11月2日(1806年12月11日)) |
別名 | 忠善 |
墓所 | 埼玉県さいたま市岩槻区日の出町の龍門寺 |
官位 | 従五位下、兵庫頭 |
幕府 | 江戸幕府奏者番 |
藩 | 武蔵岩槻藩主 |
氏族 | 大岡氏 |
父母 | 父:大岡忠光 |
兄弟 |
忠喜、加納久周、巨勢至方、 長君(牧野忠寛正室)、横田以松正室 |
妻 |
正室:井上正経の養女(本多忠強の娘) 継室:田沼意次の養女(新見正則の娘) |
子 |
忠要、娘(水野忠韶正室)、忠烈、 娘(松平信圭正室)、美濃(三宅康友正室)、 娘(小笠原信喜養女)、娘(本多政房継室)、 娘(小笠原政恒継室) |
大岡 忠喜(おおおか ただよし)は、江戸時代中期の旗本、大名。大岡忠房家5代当主で、武蔵国岩槻藩第2代藩主。諱は忠善とも伝わるが、誤記と思われる。
生涯
[編集]元文2年(1737年)、第9代将軍徳川家重の側用人を務めた旗本・大岡忠光の長男として生まれた。宝暦3年(1753年)、将軍家重にはじめて御目見する。翌宝暦4年(1754年)、菊間広縁詰めとなり、従五位下兵庫頭に叙任する。宝暦10年(1760年)、父・忠光の死去により家督を継ぎ、岩槻藩主となる。同年、雁間詰めとなり、奏者番に就任する。安永元年(1772年)、病を理由に奏者番を辞す。安永5年(1776年)、10代将軍徳川家治が日光社参のために往復とも岩槻城に宿泊した際、藩を挙げて対応した。安永9年(1780年)5月、岩槻藩の飛び地である安房国朝夷郡に清国の商船が漂流すると、郡奉行であった藩士の児玉南柯を派遣して対応している。生来病弱であったため、天明2年(1782年)に家督を長男の忠要に譲って隠居した。文化3年(1806年)に死去。享年69。
系譜
[編集]父母
- 大岡忠光(父)
正室、継室
子女