大宅賀是麻呂
大宅 賀是麻呂(おおやけ の かぜまろ、生没年不詳)は、奈良時代の官人。名は可是麻呂[1]とも加是麻呂[2]とも記される。大宅広麻呂の子。姓は朝臣。官位は散位・大初位上。大養徳国添上郡志茂郷、のち大宅郷の戸主。東大寺東南院文書中に多数の奴婢の所有者として名を残している。
経歴
[編集]聖武朝の天平13年(741年)閏3月、少初位下の時、右京職から5人、同年6月山背国司から28人、同15年(743年)9月、摂津職から13人の奴婢をそれぞれの部内の賤主の戸より大養徳国司へ、養老年間の大宅広麻呂の訴えに基づいて除籍し、賀是麻呂の方に編附する旨を通知した[3][4][5]。摂津職は同15年(743年)9月にさらに島上郡司にこの旨を通告している[6][7]。
上述のように、奴婢たちは賀是麻呂の戸籍に書類上は移されたが、実際は各地に分かれて居住し、公民として遇されていた。そこで、孝謙朝の天平勝宝元年(749年)11月、散位・大初位上の時、賀是麻呂の所有している奴36人、婢25人の合計奴婢61人を東大寺に寄進している[8][9][10]。翌2年(750年)それらの奴婢の中で、奴38人中31人と婢23人中18人が賀是麻呂の籍に附されていたが、ほかが「未除本籍」となっており[11][12][13]、同年9月の東大寺への貢納奴婢の中で、奴3人と婢4人、奴4人と婢4人が見来されており[14][15][16]、同年10月にも婢2人が見来されたようである[14][17][18]。同3年(751年)3月、茨田久比麻呂らと良賤を争い、東大寺奴婢18人(見寺侍17人)が庚午年籍より五比七比の祖父母籍に良人として貫され、賤民ではないと訴えられている[19][20]。東大寺では舎人や寺奴を派遣して駆り集めたようであるが、6名の女子とその子18名を集めたに過ぎなかった。
同8歳(756年)3月、東大寺貢納奴婢の中から3人が逃亡し[21][22]、称徳朝の天平神護3年(767年)3年7月、東大寺に貢進した「奴婢帳一巻、印無」があったことが見えている[23][24]。光仁朝の宝亀3年(772年)12月の「東大寺奴婢籍帳」には、その中の18人の名前が見られる[25][26][27]。
なお、大原櫛上の奴婢売買券文の裏書きに「一巻賀是麻呂奴帳、一枚大宅解文」とある[28][29]
官歴
[編集]脚注
[編集]- ^ 『寧楽遺文』下巻747頁・748頁・762頁・780頁
- ^ 『寧楽遺文』下巻744頁・768頁・772頁
- ^ 『寧楽遺文』下巻741頁・743頁・744頁
- ^ 『大日本古文書』巻二 - 281頁・282頁・300頁・339頁
- ^ 『東南院文書』巻三 - 153頁・155頁・178頁・179頁・180頁・181頁
- ^ 『寧楽遺文』下巻744頁
- ^ 『東南院文書』巻三 - 182頁・185頁
- ^ 『寧楽遺文』下巻748頁
- ^ 『大日本古文書』巻三 - 322頁
- ^ 『東南院文書』巻三 - 142頁・158頁
- ^ 『寧楽遺文』下巻761 - 764頁
- ^ 『大日本古文書』巻三 - 396頁
- ^ 『東南院文書』巻三 - 143頁・169頁
- ^ a b 『寧楽遺文』下巻766頁
- ^ 『大日本古文書』巻三 - 459頁・460頁
- ^ 『東南院文書』巻三 - 165頁
- ^ 『大日本古文書』巻三 - 462頁
- ^ 『東南院文書』巻三 - 166頁
- ^ 『寧楽遺文』下巻768頁・769頁
- ^ 『大日本古文書』巻三 - 491頁・492頁
- ^ 『寧楽遺文』下巻771頁
- ^ 『大日本古文書』巻四 - 186頁
- ^ 『寧楽遺文』下巻772頁
- ^ 『大日本古文書』巻五 - 670頁
- ^ 『寧楽遺文』下巻780頁
- ^ 『大日本古文書』巻六 - 444頁・446頁
- ^ 『東南院文書』巻三 - 139頁・140頁
- ^ 『寧楽遺文』下巻746頁
- ^ 『大日本古文書』巻三 - 127頁
参考文献
[編集]- 竹内理三・山田英雄・平野邦雄編『日本古代人名辞典』2 - 406・407頁、吉川弘文館、1959年
- 竹内理三・山田英雄・平野邦雄編『日本古代人名辞典』6 - 1635・1636・1637頁、吉川弘文館、1973年
- 坂本太郎・平野邦雄監修『日本古代氏族人名辞典』162頁、吉川弘文館、1990年
- 『コンサイス日本人名辞典 改訂新版』255頁、三省堂、1993年
- 『続日本紀2 (新日本古典文学大系13)』 岩波書店、1990年
関連項目
[編集]- 菊池氏…「東大寺奴婢帳」の中に、菊池氏の先祖と思しき人物の名前が見られる。