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大宅諸姉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

大宅 諸姉(おおやけ の もろね、生年不明 - 天平17年7月23日745年8月24日))は、奈良時代前・中期の女官官位従四位上典侍

生涯

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元正朝養老7年(723年)正月、夫人藤原宮子ほか女王・女官の叙位の際に薩妙観とともに従五位上[1]

聖武朝天平8年(736年)の内侍に、「従五位上典侍大宅朝臣諸姉」と署名している。

同9年(737年)2月には、改姓した河上妙観とともに 正五位下[2]。同11年(739年)正月には春日女王小長谷女王坂合部女王茨田女王陽侯女王藤原吉日らとともに従四位下に昇叙している[3]

その後、同15年(743年)4月、良弁により金光明寺に大灌頂経1帙を貸与したとあり、この時は「大宅命婦」と記されている[4]。当時、大宅命婦所は久邇宮にあったと推察され、これらの経典を4ヶ月近く命婦所に収めたのは書写のためであったろうと思われる[5]。同16年(745年)12月、左京の人漆部連豊島を、翌17年(745年)4月、備前国の人宗我部人足を、各優婆塞として貢進している[6][7]。当時は久邇宮、紫香楽宮の寺院化が急速に進み、国分寺国分尼寺建立で宮廷も官庁も湧き上がっていた[5]

天平17年(745年)7月、従四位上で卒去[8]

官歴

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注記のないものは『続日本紀』による。

脚注

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  1. ^ 『続日本紀』巻第九、元正天皇 養老7年正月10日条
  2. ^ 『続日本紀』巻第十二、聖武天皇 天平9年2月14日条
  3. ^ 『続日本紀』巻第十三、聖武天皇 天平11年正月13日条
  4. ^ 『大日本古文書』巻廿四 - 171頁・178頁
  5. ^ a b 日本図書センター、『日本女性人名辞典』p216、1993年
  6. ^ 『寧楽遺文』下巻518頁
  7. ^ 『大日本古文書』巻廿五 - 125頁・164頁
  8. ^ 『続日本紀』巻第十六、聖武天皇 天平17年7月23日条

参考文献

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