大和晴完
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時代 | 室町時代 - 江戸時代 |
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生誕 | 明応8年(1499年) |
死没 | 慶長9年(1604年)1月11日 |
改名 | 晴通→晴完 |
別名 | 宗恕(法名) |
官位 | 従三位、刑部少輔、宮内大輔 |
主君 | 足利義晴→足利義稙→足利義輝→足利義昭→毛利輝元 |
氏族 | 大和氏 |
父母 | 大和元綱 |
兄弟 | 晴完、金蔵院、小三郎 |
子 | 秀国、金蔵院 |
大和 晴完(やまと はるみつ、明応8年(1499年) - 慶長9年(1604年)1月11日)は、室町時代から江戸時代にかけての武士。
出自
[編集]大和氏は、代々室町幕府の奉公衆四番衆を務めた家。『永享以来御番帳』以下七種の室町幕府の番帳・役人付類に、すべて四番組として確認できる。
晴完が記した『大和三位入道宗恕家乗』によると、日向右京大夫の子で足利尊氏、義詮、義満に仕えたとされる秀政が「大和」の姓を与えられたのが始まりであるという。ただし、同書は秀政の娘(さぬ)が尊氏の妻となり義詮の母となったなどの創作が含まれている[1]。
『萩藩閥閱録』所収の家譜には、「大和守秀政、足利尊氏依父子之契約、姓を源ニ改、名字幷二引紋等被下、足利大和守秀政と申候」とあり、秀政が尊氏と「父子之契約」(足利一門以上の関係)を結び、足利の「名字」と家紋(二引紋)を賜ったという。戦国時代には、伊勢貞陸も『常照愚草』の中に「大和家の事、御父ニ被成候事ハ等持院殿様被成御判云々、本は足利大和守とも、証文等にのせられしとなり」と記している[2]。
文和4年(1355年)の『足利尊氏近習馬廻衆一揆契状』には「やまと氏政」「やまとの弥太郎政行」が見える[3]。
概要
[編集]『永禄六年諸役人附』には申次衆として名前が見える。後に息子・大和秀国が毛利輝元に仕えた縁で晴完も輝元の下に移り住み、子孫は長州藩に仕えた。『言経卿記』慶長9年(1604年)1月11日条には「百六歳歟、言語道断々々々々」とあり、106歳で死去したことがわかる[4]。