大久保忠高
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時代 | 江戸時代前期 - 中期 |
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生誕 | 元和5年(1619年) |
死没 | 元禄15年4月25日(1702年5月21日) |
別名 | 市十郎(通称)、道無(号) |
戒名 | 嶺翁院殿相岩道無大居士 |
墓所 | 東京都世田谷区太子堂の最勝寺 |
官位 | 従五位下、山城守、佐渡守、伊豆守 |
幕府 | 江戸幕府 |
藩 | 近江国内 |
氏族 | 大久保氏 |
父母 | 父:大久保忠知、母:稲垣長茂の娘 |
兄弟 | 忠高、忠信 |
妻 | 正室:今川直房の娘、継室:大炊御門経孝の娘 |
子 | 源三郎、娘(青山幸豊正室)、娘(稲垣重房正室)常春、忠宜(三男) |
大久保 忠高(おおくぼ ただたか)は、江戸時代前期から中期の旗本、大名。烏山藩大久保家初代。
生涯
[編集]1500石を領した旗本大久保忠知の長男として生まれた。
正保元年(1644年)、父の死去により遺領を相続する。500石を弟の忠信に分与して1500石を領した。小姓組番頭、新番頭を経て寛文2年(1662年)1,000俵加増。延宝4年(1676年)に留守居となり、延宝7年には(1679年)2000俵、天和2年に(1682年)2000石をそれぞれ加増された。さらに側衆に進み、貞享元年(1684年)に2000石加増され、貞享3年(1686年)に1500石を加えて近江国6郡に計1万石を領する大名となった。
元禄2年(1689年)に徳川綱吉から側衆を罷免され閉門処分となった。
元禄12年(1699年)に家督を次男の常春に譲って隠居した。元禄15年(1702年)死去。
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