大久保忠恒
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時代 | 江戸時代 |
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生誕 | 享保9年(1724年) |
死没 | 享和3年(1803年) |
別名 | 平助、彦左衛門(通称)、南寧、英瓊、玉甃(号) |
墓所 | 杉並区の理性寺 |
幕府 | 江戸幕府 書院番士 |
主君 | 徳川吉宗→徳川家重→徳川家治→徳川家斉 |
氏族 | 大久保氏 |
父母 | 父:大久保忠備、母:町田氏 |
妻 |
先妻:妻木頼直の娘 後妻:戸田氏常の娘 |
子 |
娘(島田直矩妻→布施正世妻)、忠和、亀之助、娘(大久保忠順妻) 養子:忠恕[1]、忠致[2]、忠順[3] |
大久保 忠恒(おおくぼ ただつね)は、江戸時代前中の旗本。大久保忠備の嫡男であり、大久保忠教(彦左衛門)の玄孫にあたる。通称は彦左衛門。
延享元年11月2日(1744年12月5日)跡を継ぎ、同年12月11日に徳川吉宗にお目見え。同月21日書院番士に就く。宝暦6年(1756年)7月末に番を辞し、寛政元年8月5日(1789年9月23日)に致仕した。しかし、忠恒は跡継ぎにめぐまれず、本家筋の一門の忠順を婿養子として跡を継がせた。旗本でありながら余技で絵を良くし、南蘋派風の作品が幾つか知られている。
作品
[編集]作品名 | 技法 | 形状・員数 | 寸法(縦x横cm) | 所有者 | 年代 | 落款・印章 | 備考 |
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柳ニ叭々鳥図 | 紙本著色 | 1幅 | 112.8x47.9 | 個人 | 1778年(安永7年) | 款記「戊戌歳孟冬勝葵瓊寫」/印文不詳白文方印・「印文文詳」(印) | |
鶴亀図 | 絹本著色 | 双幅 | 90.4x32.3(各) | 個人 | 1783年(天明3年) | 右幅:款記「癸卯歳青陽 葵瓊勝南寧寫」/印文不詳白文方印・印文不詳白文方印 左幅:款記「癸卯歳青陽 葵瓊勝南寧寫」/印文文詳白文方印・印文文詳白文方印 |
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Seated Tiger | 絹本著色 | 1幅 | 106.05x55.88 | ミネアポリス美術館 | 1786年(天明6年) | 款記「丙午歳閏十月初三 葵瓊勝南寧寫」 |