大串重親
大串 次郎 重親(おおくし の じろう しげちか)は、平安時代後期の武士。武蔵国出身。
武蔵国を拠点とした武士団、武蔵七党の一つ、横山党の出身[1]。大串氏は、由木保経[2]の次男・孝保[3]が称したのに始まり、武蔵国横見郡大串郷(現在の比企郡吉見町大串)を本領とする家柄であり、重親はその孝保の子であった[4]。畠山重忠とは烏帽子親、烏帽子子の関係にあり、名前の「重」の一字は重忠から拝領したものと考えられている[1][5]。
宇治川の戦いにおいて、重親は川を渉る際に馬を流され溺れかけたが、徒歩で渡河し、同じく馬を流されて徒歩で渡っていた畠山重忠にしがみついた。怪力で知られる重忠は重親を掴んで向こう岸まで投げ飛ばした。岸まで投げ飛ばされた重親は、大勢の敵を前にして、我こそが徒立ちの先陣(騎乗での先陣は佐々木高綱)であると大声で宣言し、敵味方から笑いが起こったという逸話が『平家物語』に描かれている[5][6][7]。奥州合戦では、重忠に随伴し[5][8]、阿津賀志山の合戦で敵の総大将藤原国衡を討ち取ることに貢献した。和田義盛が矢を射掛けて国衡が負傷してうろたえたところに重親の部隊が猛攻撃をしかけ、深田に馬の足を捕らわれもたついている国衡を討ち取り首級をあげたことが、『吾妻鏡』に記されている[6][9]。重親は討ち取った国衡の首を重忠に渡したが、この後国衡討伐の功績を巡り重忠と和田義盛の間で口論が生じることとなった[10]。
源平盛衰記によれば重忠が追討された二俣川の戦いにも参戦していた。このとき重親は安達景盛などと共に重忠と対峙したが、弓を収めて撤退した。北条時政の讒訴によって追討されることとなった重忠への同情からの行動だといわれる[11]。
金蔵院にある宝篋印塔二基の内一つが、重親の墓ではないかと推定されている[6]。この塔は古くから重親の墓と言い伝えられてきたが、作られた年代が重親の生きた時代と百年以上差異があるなどの点もあるため重親の墓であるかどうか判然としていない[6]。
地元である比企郡吉見町大串ではいくつかの伝承が伝わる重親だが、史料での言及頻度は烏帽子親の重忠と比べると少ない[6]。
太田道灌の書状である『太田道灌状』に名前が見える大串弥七郎は、重親の子孫と考えられている[6]。
脚注
[編集]- ^ a b 中世武蔵人物列伝・61頁
- ^ 横山義孝の孫・経孝(経兼)の子(詳細は横山党#系図を参照)。由木氏の祖。
- ^ 小坪合戦の際に三浦氏と和平交渉を行った人物として三浦側の記録に残っている「横山弥太郎」のことか。
- ^ 下記外部リンク参照。
- ^ a b c 山野龍太郎論文(山本、2012年、p.177・p.179・p.182 脚注(17))より。
- ^ a b c d e f 中世武蔵人物列伝・62頁
- ^ 『高野本平家物語』巻第九「宇治川先陣」(新編日本古典文学全集四六、小学館、p168)。
- ^ 『吾妻鏡』文治5年(1189年)7月19日条。
文治五年七月小十九日丁丑。巳尅。二品爲征伐奥州泰衡發向給。……御進發儀。先陣畠山次郎重忠也。先疋夫八十人在馬前。五十人々別荷征箭三腰。〔以雨皮袋之。〕三十人令持鋤鍬。次引馬三疋。次重忠。次從軍五騎。所謂長野三郎重淸。大串小次郎。本田次郎。榛澤六郎。柏原太郎等是也。
(※尚、この記述から、重親の通称が「小次郎」であったことが窺える。) - ^ 貫、1962年、p.94。
- ^ 貫、1962年、p.96。
- ^ 貫、1962年、p.157。
参考文献
[編集]- 貫達人 『畠山重忠』〈人物叢書〉(吉川弘文館、1962年) ISBN 4-642-05072-8
- 埼玉県立歴史史料館『中世武蔵人物列伝』(さきたま出版会) ISBN 4-87891-129-8
- 山野龍太郎「鎌倉期武士社会における烏帽子親子関係」(所収:山本隆志 編『日本中世政治文化論の射程』(思文閣出版、2012年) ISBN 978-4-7842-1620-8)。