多米弟益
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多米 弟益(ため の おとます、生没年不詳)は、平安時代初期から前期にかけての官人。姓は宿禰。官位は外従五位下・下野権介。
出自
[編集]多米氏(多米連)は、大炊(宮廷の炊職として米の精白・炊飯を実施)を担当した品部である多米部の伴造氏族。神魂命五世の孫の天日鷲命を祖とする天神系氏族で、その四世孫の小長田命が成務朝で大炊寮に仕え、献上した御飯が香美であったことから、多米連の氏姓を与えられたという[1]。タメの呼称は飲食物の総称であるタメツモノ(善味の意味)に由来する。天武朝において八色の姓の制定を通じて、一部は宿禰姓に改姓した[2]。
経歴
[編集]左大史を経て、天安2年(858年)大外記と、文徳朝から清和朝初頭にかけて文書作成を掌る官職を務める。この間の貞観2年(860年)4月に平安京および諸国に対して仁王経が講じられたが、弟益はこの行事司の一人に任ぜられている[3]。
同年11月に外従五位下に叙せられ、翌貞観3年(861年)山城介に任ぜられると、貞観11年(869年)下野権介と、以降は一転して地方官を歴任した。
官歴
[編集]注記のないものは『日本三代実録』による。
- 時期不詳:左大史
- 天安2年(858年) 正月22日:大外記[4]。3月:兼勘解由次官[4]
- 時期不詳:正六位上
- 貞観2年(860年) 2月26日:行事司(講仁王経)。11月16日:外従五位下
- 貞観3年(861年) 正月13日:山城介
- 貞観11年(869年) 2月16日:下野権介