堀達之助
堀 達之助(ほり たつのすけ、文政6年11月23日(1823年12月24日) - 1894年1月3日(明治27年)は、江戸時代末期(幕末)の江戸幕府阿蘭陀通詞(オランダ通詞、辞書編纂者、開拓使官僚。名は徳政、徳祉。達之とも。隠居後は達五と称した。
生涯
[編集]文政6年(1823年)、阿蘭陀通詞(オランダ通詞)・中山武徳と陳の五男に長崎で生まれる。後に通詞・堀政信の養嗣子となる。
弘化2年(1845年)、小通詞末席となる。嘉永元年(1848年)にはアメリカ合衆国捕鯨船員のラナルド・マクドナルドより日本で初めて英語を学んだといわれる[1]。嘉永6年(1853年)、黒船来航時には浦賀奉行所与力・中島三郎助とともに交渉を担当。その際に、アメリカのマシュー・ペリー提督が乗船する旗艦・サスケハナ号に対して"I can speak Dutch!"(私はオランダ語を話すことができる)と叫んだといわれており、アメリカ側通訳のオランダ人アントン・ポートマン(後に駐日米国代理公使)を介し、オランダ語で交渉を行った。安政元年(1854年)のアメリカ合衆国東インド艦隊の再来航でも活躍し、アメリカ側からも好評価を受けている。日米和親条約の翻訳にも関与し、その締結後は下田詰めとなる。しかし、下田に滞在していたドイツ商人リュードルフが、ドイツ(プロイセン、オーストリアおよびドイツ関税同盟諸国)も米英露と同様の条約を締結したい旨の要求書簡を幕閣に報告せず独断で処理しようとしたと咎められ、入牢処分となった。この事件は冤罪ともいわれており、獄中では吉田松陰と文通をしたという。
安政6年(1859年)、古賀謹一郎の尽力により出獄し、蕃書調所対訳辞書編輯主任となり、万延元年(1860年)には筆記方も兼務して、外国新聞の翻訳作業にあたった。その結果は文久2年(1862年)「官板バタビヤ新聞」として発行され、これが日本初の新聞となった。一方で、文久元年(1861年)に西周とともに教授方に就任し、翌年には主任となって洋書調所より『英和対訳袖珍辞書』を日本初の英和辞書として刊行するに至った。また、文久3年(1863年)には開成所教授となった。
慶応元年(1865年)には、箱館に赴任し箱館奉行通詞となり、英語通詞の育成も行った。また、「函館文庫」を作り、箱館奉行所の洋書の保存に努めた[2]。
明治維新後の明治元年(1868年)には箱館裁判所参事席、文武学授掛に就任。明治3年(1870年)開拓大主典、明治5年(1872年)一等訳官に就いた。なお開拓使時代には、豪商・柳田藤吉が函館に作った「北門社郷塾」および開拓使立函館学校の英語教師も務めた[3][4]。
明治5年(1872年)に依願退職して長崎に帰り、後に大阪に移ってそこで死去した。墓所は長崎県長崎市鍛冶屋町大音寺墓域内の堀家墓地。
親族
[編集]- 次男の堀孝之(壮十郎、宗次郎)も長崎で生まれてオランダ通詞を継ぎ、通訳として薩摩藩英国留学生の一員として参加し、新納久脩・五代友厚・寺島宗則とともにヨーロッパ各国を回った[5]。
- 曾孫に堀豊彦(政治学者)、玄孫に堀孝彦(倫理学者)がいる。
堀達之助が登場する作品
[編集]- 小説
- ドラマ
脚注
[編集]- ^ ただし、堀孝彦『英学と堀達之助』(2001)は、堀達之助がマクドナルドに英語を習ったという旧説は誤りであることを論証し、堀は独学で英語で学んでいた可能性を示している。
- ^ 函館市史通説編第2巻 英語稽古所の終焉と明治維新
- ^ 函館市史通説編第2巻 郷塾(郷学校)
- ^ 函館市史通説編第2巻 開拓使立函館学校
- ^ 薩摩藩英国留学生記念館 『堀孝之(ほりたかゆき)』
参考文献
[編集]- 日本歴史学会『明治維新人名辞典』
- 国史大辞典編集委員会『国史大辞典』
外部リンク
[編集]- はこだて人物誌 堀達之助 - 函館中央図書館