堀江久勝
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堀江 久勝[1](ほりえ ひさかつ、1877年(明治10年)1月[2] - 没年不明)は、広島高等学校教授[1][2][3]。族籍は長野県士族[2][3][4]。
人物
[編集]長野県士族・堀江久次の二男[3][4]。松本市生まれ[3]。1927年、家督を相続[4]。1904年、東京帝国大学文科大学哲学科を卒業[3][4][5]。茨城県立太田中学校教諭、秋田鉱山専門学校教授同生徒監、山形高等学校教授等を歴任[4]。
1922年、倫理及び教育研究のため独英に留学し、1924年、広島高等学校教授に任ぜられ1932年、退官する[4]。趣味は文学、絵画、園芸[4]。宗教は仏教[4]。住所は広島市白島九軒町[1][3]、東京市世田谷区玉川等々力町[4]。
家族・親族
[編集]- 堀江家
- 父・久次(長野士族)[3][4]
- 妻・すい(1881年 - ?、長野、小笠原平作の四女)[3][4]
- 男・久成(1910年 - ?、大倉商事勤務)[4]
- 二男・正治[3](1912年 - ?、昭和肥料勤務[4])
- 三男[4]
- 女(1905年 - ?)[4]
- 三女[4]
脚注
[編集]- ^ a b c 『日本紳士録 第35版』広島フ、ヘ、ホ、マの部21頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2020年9月16日閲覧。
- ^ a b c 『人事興信録 第8版』ホ34 - 35頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2020年9月16日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i 『人事興信録 第9版』ホ30 - 31頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2020年9月16日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 『人事興信録 第12版 下』ホ36頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2020年9月16日閲覧。
- ^ 『東京帝国大学一覧 從大正7年 至大正8年』学士及卒業生姓名 文学士 哲学科233頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2020年9月16日閲覧。
参考文献
[編集]- 東京帝国大学編『東京帝国大学一覧 從大正7年 至大正8年』東京帝国大学、1913 - 1924年。
- 人事興信所編『人事興信録 8版』人事興信所、1928年。
- 人事興信所編『人事興信録 第9版』人事興信所、1931年。
- 交詢社編『日本紳士録 第35版』交詢社、1931年。
- 人事興信所編『人事興信録 第12版 下』人事興信所、1940年。