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坂田昌熾

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

坂田 昌熾(さかた まさあき[1] / まさたる[2]1851年嘉永4年1月[1][3])- 1908年明治41年)3月30日[1][2][3][4])は、幕末長州藩奇兵隊士、明治期の海軍軍人政治家衆議院議員。最終階級は海軍少佐。通称・次郎[4]。号・琴所[2]

経歴

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周防国熊毛郡伊保庄南村(山口県[1]熊毛郡伊保庄南村[3]阿月村[2]を経て現柳井市阿月)で、長州藩寄組で阿月領主浦氏の家臣の家に生まれた[2]赤禰武人、岡村熊七らに学んだ[2]奇兵隊に所属し四境戦争に従軍した[2]

明治維新後、大阪東京で英語を学んだ[2]。1874年(明治7年)1月、海軍に出仕し海軍少尉補に任官[2][4]神風連の乱萩の乱の鎮定、西南戦争に従軍した[1][3]

以後、水路部測量班長、軍事部勤務、参謀本部海軍部第1局員、艦隊対戦演習取調委員、大演習審判官陪従、兵器部次長、横須賀軍港司令官副官、軍法会議判士長、迅鯨艦副長、鳳翔艦長、海軍造兵廠火薬科長などを歴任[1][3]。この間、米国に留学[1][3]。1893年(明治26年)6月、海軍少佐で予備役に編入[2][5]。1897年(明治30年)12月、後備役[4]、1902年(明治35年)12月に退役した[2][4]

1894年(明治27年)3月、第3回衆議院議員総選挙(山口県第4区、国民協会)では次点で落選[6]。同年9月の第4回衆議院議員総選挙(山口県第4区、無所属)で当選し[2][7]、衆議院議員に1期在任した[1][3]

1908年3月、東京で死去した[2]

親族

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脚注

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  1. ^ a b c d e f g h 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』288頁。
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m 『増補 近世防長人名辞典 第2刷』121頁。
  3. ^ a b c d e f g 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』209頁。
  4. ^ a b c d e 『明治過去帳』1067頁。
  5. ^ 『官報』第2989号、明治26年6月17日。
  6. ^ 『衆議院議員総選挙一覧 上巻』50頁。
  7. ^ 『衆議院議員総選挙一覧 上巻』106頁。
  8. ^ 「坂田幹太」『人事興信録 第4版』さ53頁。

参考文献

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  • 人事興信所編『人事興信録 第4版』人事興信所、1915年。
  • 『衆議院議員総選挙一覧 上巻』衆議院事務局、1915年。
  • 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』衆議院事務局、1940年。
  • 大植四郎編『明治過去帳』新訂初版、東京美術、1971年(原著私家版1935年)。
  • 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
  • 吉田祥朔『増補 近世防長人名辞典 第2刷』マツノ書店、2002年。