坂田昌熾
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坂田 昌熾(さかた まさあき[1] / まさたる[2]、1851年(嘉永4年1月[1][3])- 1908年(明治41年)3月30日[1][2][3][4])は、幕末の長州藩奇兵隊士、明治期の海軍軍人・政治家。衆議院議員。最終階級は海軍少佐。通称・次郎[4]。号・琴所[2]。
経歴
[編集]周防国熊毛郡伊保庄南村(山口県[1]熊毛郡伊保庄南村[3]、阿月村[2]を経て現柳井市阿月)で、長州藩寄組で阿月領主浦氏の家臣の家に生まれた[2]。赤禰武人、岡村熊七らに学んだ[2]。奇兵隊に所属し四境戦争に従軍した[2]。
明治維新後、大阪、東京で英語を学んだ[2]。1874年(明治7年)1月、海軍に出仕し海軍少尉補に任官[2][4]。神風連の乱・萩の乱の鎮定、西南戦争に従軍した[1][3]。
以後、水路部測量班長、軍事部勤務、参謀本部海軍部第1局員、艦隊対戦演習取調委員、大演習審判官陪従、兵器部次長、横須賀軍港司令官副官、軍法会議判士長、迅鯨艦副長、鳳翔艦長、海軍造兵廠火薬科長などを歴任[1][3]。この間、米国に留学[1][3]。1893年(明治26年)6月、海軍少佐で予備役に編入[2][5]。1897年(明治30年)12月、後備役[4]、1902年(明治35年)12月に退役した[2][4]。
1894年(明治27年)3月、第3回衆議院議員総選挙(山口県第4区、国民協会)では次点で落選[6]。同年9月の第4回衆議院議員総選挙(山口県第4区、無所属)で当選し[2][7]、衆議院議員に1期在任した[1][3]。
1908年3月、東京で死去した[2]。
親族
[編集]脚注
[編集]参考文献
[編集]- 人事興信所編『人事興信録 第4版』人事興信所、1915年。
- 『衆議院議員総選挙一覧 上巻』衆議院事務局、1915年。
- 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』衆議院事務局、1940年。
- 大植四郎編『明治過去帳』新訂初版、東京美術、1971年(原著私家版1935年)。
- 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 吉田祥朔『増補 近世防長人名辞典 第2刷』マツノ書店、2002年。