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坂合部磐積

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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坂合部磐積
時代 飛鳥時代
生誕 不明
死没 不明
別名 石積
官位 大山下
主君 孝徳天皇斉明天皇天智天皇弘文天皇天武天皇
氏族 坂合部宿禰
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坂合部 磐積(さかいべ の いわつみ)は、飛鳥時代貴族。名は石積とも表記する。のち宿禰冠位大山下

出自

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坂合部氏境界の画定に携わった坂合部伴造氏族であることが通説とされるが、允恭天皇皇子坂合黒彦皇子名代であったとする説もある。皇別の大彦命の末裔とする系統と、神別の天火明命の子孫とする系統がある。このうち、磐積の系統は天火明命(火闌降命)の八世孫である贄宿禰(邇倍足尼)の後裔とされ、同族に同じく遣唐使として派遣された坂合部磐鍬坂合部大分らがいた[1]

経歴

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孝徳朝白雉4年(653年)大使・吉士長丹、副使・吉士駒、学問僧の道昭定恵などが派遣された第二次遣唐使に学生として参加する[2]

天智天皇4年(665年)12月に守大石を大使とする第五次遣唐使に参加する。この時の遣唐使は同年9月に訪日した劉徳高らを送迎するものであったらしい[3]。なお、先の遣唐使の留学僧の定恵が劉徳高の船に乗って日本に帰国してきており[4]、磐積の再度の遣唐使への参加はこの縁によるものとも想像される。

天智天皇6年(667年)唐軍の百済の鎮将・劉仁願が派遣した熊津都督府熊山(ゆうせん)県令上柱国司馬法聡と共に帰国。この時の冠位大山下[5]。守大石は帰国しなかった。彼らは泰山高宗が行なった封禅の儀に参列したと推測されている。

天武天皇10年(681年食封として60戸を与えられ、30匹・綿150斤・150端・钁(くわ)100口を与えられた[6]。翌天武天皇11年(682年)『新字』1部44巻を天皇に命じられて作成した[7]。天武天皇13年(684年)に制定された「八色の姓」により連姓から宿禰姓に改姓している。天武天皇14年(685年)天武天皇は臣下と博戯(双六などの賭け事)をして遊んだ。この中のメンバーに磐積がおり、宮処王・難波王竹田王・三国友足・県犬養大伴大伴御行多品治采女竹羅中臣大島とともに、天皇から御衣袴[8]を与えられている[9]

脚注

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  1. ^ 『新撰姓氏録』左京神別,右京神別
  2. ^ 『日本書紀』白雉4年5月12日条
  3. ^ 『日本書紀』天智天皇4年是歳条
  4. ^ 『日本書紀』白雉5年2月条、『伊吉博徳書』
  5. ^ 『日本書紀』天智天皇6年11月9日条
  6. ^ 『日本書紀』天武天皇10年正月11日条
  7. ^ 『日本書紀』天武天皇11年3月13日条
  8. ^ おおみそおおみはかま=お召し物と袴
  9. ^ 『日本書紀』天武天皇14年9月18日条

参考文献

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