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土御門顕親

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
土御門顕親
時代 鎌倉時代前期 - 中期
生誕 承久2年(1222年
死没 不明
改名 輔通→顕親
別名 源顕親、土御門中納言
官位 従二位権中納言
主君 仲恭天皇後堀河天皇四条天皇後嵯峨天皇後深草天皇
氏族 村上源氏久我流土御門家
父母 父:土御門定通、母:北条義時娘・竹殿
兄弟 顕定顕親定済顕良、覚顕、顕雲、通円
養兄弟:顕方
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土御門 顕親(つちみかど あきちか[1])は、鎌倉時代前期から中期にかけての公卿内大臣土御門定通の二男。官位従二位権中納言

経歴

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承久2年(1222年)正二位権大納言・土御門定通と六波羅探題北条泰時の妹竹殿の子として誕生。前年に発生した承久の乱の影響で父定通は失権しており、後ろ盾のない苦しい立場にあった。承久4年(1224年)叙任する。この時の名は輔通。北条泰時は父義時急死のため鎌倉へ戻り執権となる。泰時の嫡男北条時氏が六波羅探題北方となる。

嘉禄3年(1227年)侍従に任じられ、名を顕通と改める。父は変わらず苦しい立場だったが[注釈 1]、この後、兄・顕定と共に昇進を重ねていく。

安貞3年(1229年)従五位上に叙任。寛喜2年(1230年)、六波羅探題北方北条時氏が死去し、母竹殿の同母兄北条重時が後任に就く。寛喜3年(1231年)正五位下叙任、備前介に任官。貞永元年(1232年)左少将、長門介を兼ねる。この年、北条泰時が御成敗式目を制定する。貞永2年(1233年)従四位下叙任。嘉禎元年(1235年)従四位上叙任。嘉禎2年(1236年)左中将に遷任。同年、父定通が内大臣に就く。嘉禎3年(1237年)正四位下叙任、翌年従三位叙任。暦仁2年(1239年)正三位、仁治2年(1241年)参議となり従二位叙任。

仁治3年(1242年)に四条天皇が急死すると、父定通は執権北条泰時と諮り後嵯峨天皇を擁立する。同年中納言に就く。また、執権・泰時が死去し、孫の北条経時が執権に就く。

寛元4年(1246年)後嵯峨天皇が後深草天皇に譲位し、院政を開始する。また、執権・経時が死去し、弟の北条時頼が執権に就く。

宝治元年6月2日1247年)出家。『弁内侍日記』では「今の世にはこれ程なる人も有りがたし」と評されている。

脚注

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注釈

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  1. ^ この年、洛南・吉祥院前の川での鮎釣りを巡り諍いを起こしている。

出典

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  1. ^ 『弁内侍日記』上巻 底本註、宝治元年(1247年)六月一日条

参考資料

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  • 群書類従『弁内侍日記』
  • 宮崎康充 編集『検非違使補任別巻』八木書店