土井藤右衛門
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土井 藤右衛門(どい とうえもん、旧姓・木村、前名・卓爾[1]、1892年(明治25年)1月9日[2] - 没年不明)は、日本の会社役員。族籍は三重県平民[1]。
経歴
[編集]三重県員弁郡東員村(現東員町)出身。木村誓太郎の七男[1][3][4][5]。木村秀興の弟[3][6]。先代藤右衛門の養子となり、1910年に家督を相続し、卓爾を改め襲名する[4][5]。
1912年、第三高等学校を卒業[7]。1916年、東京帝国大学法科大学独法科を卒業する[1][4][6][8]。東京練炭製造所、北山索道、草津電鉄、日化燃料、佐藤衡器各会社の重役である[4][5]。
人物
[編集]紀勢東線相賀尾鷲間の工事開始等は土井が帝都にあって尽くすところが多かった[9]。
住所は三重県北牟婁郡尾鷲町大字南浦[2](現・尾鷲市)、東京市芝区白金三光町[3]、赤坂区青山南町二丁目[4][5][10]。
家族・親族
[編集]- 土井家
土井家は土井忠兵衛より分れて一家を創立し、5代を経て先代藤右衛門に至る[3][4][6][10]。代々藤右衛門を襲名する[3][4][6]。
- 養父・藤右衛門(1868年 - ?、三重県北牟婁郡尾鷲町のカネ吉・南土井商店、林業家、醤油醸造家[11]、尾鷲銀行取締役[12])
- 養母・早苗(1874年 - ?、和歌山、浦春暉の二女)[1][12]
- 養妹・田鶴(1896年 - ?、分家して土井高禮を夫に迎える)[4][5]
- 妻・ちよ(1908年 - ?、新潟、小林仁平の二女)[4][5]
- 親戚
脚注
[編集]- ^ a b c d e f 『人事興信録 第7版』と13頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2022年1月30日閲覧。
- ^ a b 『三重県紳士録』430頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2024年2月17日閲覧。
- ^ a b c d e f 『人事興信録 第9版』ト16頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2022年1月30日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i 『人事興信録 第13版 下』ト14頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2022年1月30日閲覧。
- ^ a b c d e f 『人事興信録 第14版 下』ト14頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2022年1月30日閲覧。
- ^ a b c d 『帝国大学出身名鑑』ト7頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2022年1月30日閲覧。
- ^ 『第三高等学校一覧 大正6年9月起大正7年8月止』明治四十五年卒業生84頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2024年2月19日閲覧。
- ^ 『東京帝国大学一覧 従大正7年至大正8年』学士及卒業生姓名 法学士 法律学科106頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2022年1月30日閲覧。
- ^ 『紀伊北牟婁郡誌』第二十二章 本郡近代人物誌87頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2024年2月17日閲覧。
- ^ a b 『人事興信録 第12版 下』ト17頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2022年1月30日閲覧。
- ^ 『商工名鑑』北牟婁郡3頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2022年1月30日閲覧。
- ^ a b 『人事興信録 第3版』と3頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2022年1月30日閲覧。
参考文献
[編集]- 人事興信所編『人事興信録 第3版』人事興信所、1903 - 1911年。
- 第三高等学校編『第三高等学校一覧 大正6年9月起大正7年8月止』第三高等学校、1912 - 1926年。
- 『商工名鑑』名古屋商工社、1913年。
- 東京帝国大学編『東京帝国大学一覧 従大正7年至大正8年』東京帝国大学、1913 - 1924年。
- 服部英雄編『三重県紳士録』三重県紳士録編纂会、1915年。
- 人事興信所編『人事興信録 第7版』人事興信所、1925年。
- 人事興信所編『人事興信録 第9版』人事興信所、1931年。
- 校外調査会編『帝国大学出身名鑑』校外調査会、1932年。
- 田中朱雀『紀伊北牟婁郡誌』北牟婁郡誌編纂会、1932年。
- 人事興信所編『人事興信録 第12版 下』人事興信所、1940年。
- 人事興信所編『人事興信録 第13版 下』人事興信所、1941年。
- 人事興信所編『人事興信録 第14版 下』人事興信所、1943年。