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土井利恒

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
土井利恒
土井利恒
時代 江戸時代後期 - 明治時代
生誕 嘉永元年7月19日1848年8月17日
死没 明治26年(1893年3月29日
改名 捨次郎(幼名)、利恒
墓所 多磨霊園
官位 従五位上能登守正四位
幕府 江戸幕府
主君 徳川家茂慶喜明治天皇
越前大野藩
氏族 土井氏
父母 土井利忠
土井利則長女福子
利剛、恒次郎
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土井 利恒(どい としつね)は、江戸時代後期の大名越前国大野藩第8代(最後)の藩主。官位従五位上能登守。利房系土井家8代。明治に至って正四位子爵

略歴

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7代藩主・土井利忠の三男として誕生した。幼名は捨次郎。

文久2年(1862年)4月13日、利忠と共に江戸へ出発し、5月に正式な嫡子とされ、7月に利恒と改名した。11月6日、利忠は隠居して利恒が家督を相続した。このとき、利忠以来恒例となった藩主直書大野城に送った。利忠の直書では天保元年(1830年)の大野初入部以来の家臣の忠勤に感謝した上で、利恒へ一層の忠勤を求め、利恒の直書では当分の間は利忠の政策を受け継ぎ、父に変わらぬ忠勤を要請した。

文久3年(1863年)4月9日、利忠以来の功臣内山隆佐家老・軍事惣督に任じた。12月8日、利恒は14代将軍・徳川家茂の上洛の供を命じられ、22日京へ出発した。

元治元年(1864年)6月23日、内山隆佐が病死した。これがこの年末における天狗党騒動において、大野藩の動向に少なからぬ影響を与える。

天狗党通過

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11月1日、水戸藩内の抗争に敗れた武田耕雲斎以下天狗党800余名は、に駐在する一橋慶喜を頼ることに決し、中山道美濃路を通って京へ向かった。ところが、美濃国鵜沼において彦根藩大垣藩に抵抗され、そこから北へ転じて越前国へ向かった。

12月1日、福井藩からの急飛脚で天狗党が美濃・越前国境に迫ったことを知った大野藩は混乱した。軍事惣督の内山隆佐を亡くしたばかりの時期で、また藩主利恒は江戸にあった。残る重臣たちは、藩兵をかき集めても200名ほどしかなく、天狗党には到底抵抗しきれないと判断し、天狗党の予想進路に当たる村落を全て焼き払うことを決定した。こうして無意味な焦土作戦が実行に移され、12月4日に上秋生村全軒、下秋生村6軒、中島村93軒、上笹又村・下笹又村全軒と、民家203軒が大野藩兵によって焼き払われた。このうち、国境に近い上秋生、下秋生は手違いで天狗党の通過後に放火され、村人の怒りを買った。この焼き討ちは「浪人焼け・西谷焼け」と言われ、居住していた村人の子孫は、今日でも土井家関係の祭りには参加しないという。

12月5日、大野藩は福井藩と勝山藩に援軍を求め、大野藩兵は後退して天狗党と睨み合いになったが、後日大野の町年寄・布川源兵衛を使者に立て、大野城下を通らないよう交渉させた。結局、大野藩が2万6千両を軍資金として支払う代わりに、天狗党が他領へ去ることで決着した。

維新前後

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慶応元年(1865年)11月18日、利恒は京都嵯峨および太秦の警衛を命じられた。明治維新により利恒は官軍に恭順し、明治元年(1868年)4月12日に新政府より箱館裁判所副総督に任命され、9月8日に大野藩兵166名を箱館戦争参加のため出発させている。

明治2年(1869年)に版籍奉還藩知事となり、明治4年(1871年)の廃藩置県で免官となった。明治17年(1884年)7月8日に子爵に叙爵された。

栄典

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家族

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父母

子女

  • 土井利剛(長男)、生母は福子(正妻)子爵[3]
  • 土井恒次郎(次男)[3]

脚注

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  1. ^ 『官報』第308号、1884年7月9日。
  2. ^ 読みはとみこ
  3. ^ a b c 『平成新修旧華族家系大成』下巻、133頁。

参考文献

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日本の爵位
先代
叙爵
子爵
大野土井家初代
1884年 - 1893年
次代
土井利剛