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国鉄キ1形貨車

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
国鉄ユキ15形貨車から転送)
国鉄キ1形貨車
ユキ27
ユキ27
基本情報
車種 雪かき車
運用者 鉄道省
日本国有鉄道
製造所 札幌工場、苗穂工場、大宮工場金沢工場*
製造年 1928年(昭和3年)**
製造数 86両
消滅 1958年(昭和33年)
常備駅 糸魚川駅米子駅、他
主要諸元
車体色
軌間 1,067 mm
全長 10,649 mm
全幅 3,880*** mm
自重 18.9 t - 22.4 t
換算両数 2.0
台車中心間距離 6,477 mm
最高速度 65 km/h
備考 *ユキ15形製造メーカー
**称号規程改正年
***翼を全開時
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国鉄キ1形貨車(こくてつキ1がたかしゃ)は、かつて鉄道省及び1949年(昭和24年)6月1日以降は日本国有鉄道(国鉄)に在籍した事業用貨車(木製単線ラッセル式雪かき車)である。

概要

[編集]

キ1形1928年(昭和3年)の車両称号規程改正により、ユキ15形改番したものである。

日本初の雪かき車として、1911年(明治44年)1月にアメリカ合衆国のラッセル・アンド・スノープラウ社より1両(ユキ15 → キ1)が輸入された、木製の単線ラッセル式除雪車である。車体と鋤本体は木製であるが、鋤の先端部に鋼板が張られている。形状は、雪をいったん平鋤で跳ね上げ、その上部の楔形の鋤で左右にかき分ける延鋤形である。

予算の都合上必要数すべてを輸入することはできないので、鉄道院では本車を徹底的に調査し、約2年後の1912年(大正元年)11月から1927年(昭和2年)12月24日にかけて、量産車85両(ユキ16, ユキ25 - ユキ59, ユキ80 - ユキ94, ユキ460 - ユキ493 → キ2 - キ86)を札幌工場、苗穂工場、大宮工場金沢工場で製造した。1944年(昭和19年)には胆振縦貫鉄道からの買収編入車1両(キ28の再買収)があったが、旧番号に復帰せず続番(キ87)が与えられたため、最終番号はキ87である。

木製であるがゆえに消耗も早く、鋼製のキ100形(1928年(昭和3年)製作開始)が登場した後は徐々にその活躍の場を狭め、1958年(昭和33年)度に形式消滅した。

製造実績

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製造年 製造所 番号(ユキ15形) 番号(キ1形) 廃車年月日 廃車後
1911 ラッセル・アンド・
スノープラウ
ユキ15 キ1 1941年(昭和16年)9月18日 天塩鉄道へ譲渡
1912 札幌工場 ユキ16 キ2 1934年(昭和9年)3月31日 解体
ユキ50 キ28 三菱鉱業大夕張鉄道へ譲渡
ユキ51 キ29 1933年(昭和8年)9月28日 解体
ユキ52 キ30 1954年(昭和29年)2月25日 雄別炭鉱礦鉄道へ譲渡
ユキ53 キ31 解体
ユキ54 キ32 寿都鉄道へ譲渡
ユキ55 キ33 1956年(昭和31年)6月1日 解体
1913 大宮工場 ユキ56 キ34 解体
ユキ57 キ35 解体
ユキ58 キ36 新潟交通へ譲渡
ユキ59 キ37 山形交通尾花沢線へ譲渡
1914 札幌工場 ユキ49 キ27 1953年(昭和28年)10月31日 解体
1915 大宮工場 ユキ41 キ19 羽後交通へ譲渡
ユキ42 キ20 1957年(昭和32年)3月1日 解体
ユキ43 キ21 1934年(昭和9年)2月9日 解体
ユキ44 キ22 解体
ユキ45 キ23 1943年(昭和18年)2月1日 解体
ユキ46 キ24 解体
1915 苗穂工場 ユキ47 キ25 定山渓鉄道へ譲渡
ユキ48 キ26 1952年(昭和27年)10月11日 解体
1917-1918 苗穂工場 ユキ33 キ11 1941年(昭和16年)11月24日 羽幌炭礦鉄道へ譲渡
ユキ34 キ12 三井芦別鉄道へ譲渡
ユキ35 キ13 1954年(昭和29年)2月2日 解体
1917-1918 大宮工場 ユキ36 キ14 解体
ユキ37 キ15 1943年(昭和18年)3月27日 解体
ユキ38 キ16 解体
ユキ39 キ17 解体
ユキ40 キ18 1957年(昭和32年)3月1日 解体
1918-1919 金沢工場 ユキ25 キ3 解体
ユキ26 キ4 弘南鉄道へ譲渡
ユキ27 キ5 解体
ユキ28 キ6 解体
1918-1919 苗穂工場 ユキ29 キ7 解体
ユキ30 キ8 1952年(昭和27年)12月2日 解体
ユキ31 キ9 北海道拓殖鉄道へ譲渡
ユキ32 キ10 解体
1918-1919 大宮工場 ユキ80 キ38 解体
ユキ81 キ39 解体
ユキ82 キ40 1957年(昭和32年)10月20日 解体
ユキ83 キ41 解体
ユキ84 キ42 解体
ユキ85 キ43 解体
ユキ86 キ44 1935年(昭和10年)12月20日 解体
ユキ87 キ45 解体
ユキ88 キ46 1935年(昭和10年)6月24日 解体
ユキ89 キ47 1939年(昭和14年)6月28日 解体
1920 苗穂工場 ユキ90 キ48 1935年(昭和10年)12月20日 解体
ユキ91 キ49 1934年(昭和9年)3月31日 解体
ユキ92 キ50 1956年(昭和31年)6月1日 解体
1921 大宮工場 ユキ93 キ51 1935年(昭和10年)6月24日 解体
ユキ94 キ52 解体
1921 大宮工場 ユキ460 キ53 1954年(昭和29年)7月17日 解体
ユキ461 キ54 解体
ユキ462 キ55 1953年(昭和28年)11月14日 解体
1921 苗穂工場 ユキ463 キ56 1956年(昭和31年)6月1日 解体
ユキ464 キ57 1955年(昭和30年)8月1日 解体
ユキ465 キ58 1957年(昭和32年)7月1日 解体
ユキ466 キ59 1934年(昭和9年)10月22日 解体
ユキ467 キ60 1955年(昭和30年)1月1日 解体
ユキ468 キ61 1952年(昭和27年)10月7日 解体
ユキ469 キ62 1954年(昭和29年)9月24日 解体
1922-1923 苗穂工場 ユキ470 キ63 1953年(昭和28年)10月31日 解体
ユキ471 キ64 1953年(昭和28年)7月14日 解体
ユキ472 キ65 1957年(昭和32年)7月1日 解体
1923-1924 大宮工場 ユキ473 キ66 解体
ユキ474 キ67 定山渓鉄道へ譲渡
ユキ475 キ68 1955年(昭和30年)12月10日 解体
ユキ476 キ69 1958年(昭和33年)3月20日 解体
ユキ477 キ70 解体
ユキ478 キ71 1955年(昭和30年)6月1日 解体
ユキ479 キ72 1954年(昭和29年)7月1日 解体
ユキ480 キ73 1955年(昭和30年)8月1日 解体
ユキ481 キ74 解体
ユキ482 キ75 1952年(昭和27年)10月11日 解体
1924 大宮工場 ユキ483 キ76 1954年(昭和29年)2月19日 解体
ユキ484 キ77 1955年(昭和30年)8月1日 解体
1924 苗穂工場 ユキ485 キ78 1955年(昭和30年)8月1日 解体
1925 大宮工場 ユキ486 キ79 1958年(昭和33年)9月15日 解体
ユキ487 キ80 1952年(昭和27年)12月2日 解体
1925 苗穂工場 ユキ488 キ81 1954年(昭和29年)11月1日 解体
ユキ489 キ82 1957年(昭和32年)2月1日 北海道拓殖鉄道へ譲渡
1926 大宮工場 ユキ490 キ83 1958年(昭和33年)1月10日 解体
ユキ491 キ84 1957年(昭和32年)10月20日 解体
1927 苗穂工場 ユキ492 キ85 1958年(昭和33年)3月20日 解体
ユキ493 キ86 1953年(昭和28年)10月8日 解体
  • 1920年度に本州で31両、北海道で19両。その後札幌鉄道局管内36両、仙台、名古屋、神戸鉄道局管内に50両使用されていた。

譲渡

[編集]

1936年(昭和11年)より1958年(昭和33年)にかけ、多くの車両が地方鉄道会社に譲渡された。これは鉄道省及び国鉄が戦争中の酷使により疲弊しきった旧型のキ1形を廃車にして、新型のキ100形を増備している最中だったという背景がある。当時国鉄工場以外での雪かき車の製作実績は無く、ようやく戦後に飯野産業がキ100形を製作し始めた所であった。また私鉄において戦前は人力による除雪が基本であった。沿線農家の農閑期にあたり余剰労働力の確保が容易であったし、必要に応じて国鉄から借り入れていた。しかし戦後になるとインフレにより人件費が高騰し、除雪費が問題となっていた。

1936年(昭和11年)7月、1両(キ28)が大夕張炭礦専用鉄道に譲渡され、キ28となった。1940年(昭和15年)2月22日胆振縦貫鉄道に再譲渡され、キ1となった。1944年(昭和19年)7月1日、戦時買収により鉄道省に復帰、キ87となった[1]苗穂駅千歳駅等を常備駅とし、1953年(昭和28年)10月8日に苗穂工場において廃車になった。

1942年(昭和17年)1月15日、1両(キ1)が天塩鉄道(後の天塩炭礦鉄道)に譲渡され、キ1となった。1967年(昭和42年)、路線廃止により廃車。

1942年(昭和17年)11月27日、1両(キ11)が羽幌炭礦鉄道に譲渡され、キ11となった。1966年(昭和41年)、老朽化により廃車。

1951年(昭和26年)9月10日、1両(キ32)が寿都鉄道に譲渡され、キ32となった。1968年(昭和43年)、路線廃止により廃車。

1951年(昭和26年)9月14日、1両(キ37)が山形交通に譲渡され、尾花沢線のユキ1となった。1958年(昭和33年)、老朽化により廃車。

1951年(昭和26年)、1両(キ36)が新潟交通に譲渡され、キ1となった。1968年(昭和43年)、老朽化により廃車。

1951年(昭和26年)、1両(キ19)が羽後交通に譲渡され、横荘線のユキ1となった。1957年(昭和32年)5月27日に横手機関庫の火災により焼損したが、焼け残った部品を再用して復旧。同時に鋼体化された。1971年(昭和46年)7月21日、路線廃止により廃車。

1952年(昭和27年)5月17日、1両(キ12)が三井芦別鉄道に譲渡され、キ1となった。1955年(昭和30年)1月、自社工場で鋼体化されキ100(キ100形)に改番。1964年(昭和39年)、羽幌炭礦鉄道に譲渡された。

1952年(昭和27年)9月26日、1両(キ25)が定山渓鉄道に譲渡され、ユキ2となった。1969年(昭和44年)、路線廃止により廃車。

1952年(昭和27年)、1両(キ4)が弘南鉄道に譲渡され、弘南線のキ4となった。1968年(昭和43年)、老朽化により廃車。

1953年(昭和28年)6月23日、1両(キ9)が北海道拓殖鉄道に譲渡され、キ1(キ1形)となった。1958年(昭和33年)7月、老朽化により廃車。

1953年(昭和28年)9月19日、1両(キ67)が定山渓鉄道に譲渡され、ユキ1となった。1968年(昭和43年)、老朽化により廃車。

1954年(昭和29年)2月25日、1両(キ30)が雄別炭礦鉄道に譲渡され、キ1となった。のち鋼体化され、1970年(昭和45年)、路線廃止により廃車。

1958年(昭和33年)5月19日、1両(キ82)が北海道拓殖鉄道に譲渡され、キ2(キ1形)となった。のち鋼体化され、1964年(昭和39年)、老朽化により廃車。

参考文献

[編集]
  • 鉄道公報
  • 小熊米雄「ラッセル雪カキ車の歴史と保存」『鉄道ピクトリアル』No.447 1985年5月号
  • 「国鉄貨車形式図集 I」1992年、鉄道史資料保存会ISBN 4-88540-076-7
  • 奥山道紀・赤城英昭「RM LIBRARY 47 三菱鉱業大夕張鉄道」2003年、ネコ・パブリッシング ISBN 4-7770-5002-5
  • 若林宣「RM LIBRARY 61 羽後交通横荘線―オラほの横荘っこ―」2004年、ネコ・パブリッシング ISBN 4-7770-5060-2
  • 澤内一晃「私鉄雪掻車ものがたり」『J train』No.31 2008年
  • 貨車技術発達史編纂委員会 編「日本の貨車―技術発達史―」2008年、社団法人 日本鉄道車輌工業会刊
  • 岩成政和「ファンから見た排雪列車と除雪用機関車」、『鉄道ピクトリアル』No. 814、2009年2月