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国分青崖

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

国分 青崖(こくぶ せいがい、1857年5月27日安政4年5月5日) - 1944年昭和19年)3月5日)は、明治・大正・昭和期の漢詩人。本名は高胤(たかたね)、号は青崖、青厓とも書いた。別号に太白山人、松州など。は子美(しび)、通称は豁(とおる)。

経歴

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仙台の産。父盛久は仙台藩士だった。後年の号『青崖』は青葉城に、『太白山人』は太白山に由来している。

藩学の養賢堂で、国分松嶼(しょうしょ)に漢学を、落合直亮に国学を、岡鹿門(千仞)に漢詩を学んだ。

1878年(明治11年)、上京して司法省法学校に入った。その夏の関西旅行中、弊衣破帽のゆえに拘束される珍事があった。翌年、賄征伐(調理場荒らし)のいたずらがこじれ、原敬陸羯南福本日南加藤恒忠らと共に退校した。退校仲間とは長く親しくした。

朝野新聞・第1次高知新聞の記者を勤めて後、1889年(明治22年)創刊の日本新聞に、陸羯南に招かれて参加した。日清戦争には、遼東半島に派遣された。日本新聞には、漢詩による時事評論『評林』を連載したが、痛烈な批判が当局を刺激し、日露戦争前、1903年(明治36年)11月の『檜可斬』(檜斬るべし)や翌月の『植物類』は、発禁の処分を受け、その後も度々なので、『会社の被った罰金を弁償する』と申し出たと言う[1]

1890年(明治23年)、森槐南本田種竹らと詩社『星』社を興した。三詩人と呼ばれた。

1906年(明治39年)、陸羯南が社長を辞した時、11人の社員と共に政教社へ移り、その『日本及日本人』誌で『評林』を続けた。

1923年大正12年)、大東文化学院の創立と共に教授となった。『雅文会』・『詠社』・『興社』・『蘭社』・『樸社』・『竜社』などの詩社にかかわり、『昭和詩文』誌を主宰した。

1937年(昭和12年)、帝国芸術院会員に選ばれた。1930年(昭和5年)以来、政教社社長として『日本及日本人』誌を率いた五百木良三がこの年に没し、青崖が継ぎ、入江種矩主幹、雑賀博愛主筆と共に雑誌を続けた。戦時下の体制に迎合せざるを得なかった。

太平洋戦争大東亜戦争)の敗色が深まる中で没した。享年87。墓は多磨霊園にある。共に眠る妻・国分操子(1867-1942)は松本藩士・江崎政国の娘で[2]、歌人・教育者だった[3]。孫に國分正胤

青崖の詩作は三万首に及んだと想像されているが、詩集は、『評林』第一集の『詩董狐』しか出版しなかった。恬淡無欲な人柄だったと言われる。

著書

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  • 『詩董狐』(評林第一集)、明治書院(1897)
  • 『青厓詩存 20巻2冊』木下彪編、明徳出版社(1975)→ CD版『日本漢詩 4 明治・大正時代』、六一書房(2009)に収録

伝記研究

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  • 木下彪『国分青厓と明治大正昭和の漢詩界』、研文出版(2019)、町泉寿郎・解題

脚注

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  1. ^ 長谷川如是閑:『ある心の自叙伝』、講談社学術文庫(1984)p.343
  2. ^ 江崎政忠『人事興信録』第8版 [昭和3(1928)年7月]
  3. ^ 国分操子 歴史が眠る多磨霊園

出典

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外部リンクの情報と

  • 木下彪:『国分青崖』(『新潮日本文学辞典 増補改訂』、新潮社(1988)p.486)
  • 川崎宏:『国分青崖』(『日本近代文学大事典 机上版』、講談社(1984)p.587)
  • 『芳野懐古』(角川書店:『日本漢詩鑑賞辞典』(1980)p.536)

外部リンク

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