四辻公賀
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時代 | 江戸時代末期 ー 明治時代 |
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生誕 | 天保11年7月19日(1840年8月16日) |
死没 | 明治13年(1880年)12月19日 |
墓所 | 東京都台東区谷中霊園 |
官位 | 正三位、参議 |
主君 | 孝明天皇→明治天皇 |
氏族 | 四辻家 |
父母 |
父:四辻公績、母:広橋麗仙(広橋胤定の娘) 養父:四辻公健 |
兄弟 | 公健、公賀、績子、昌子、賢恕、正子、清子、重子、千賀子、公憲、多鶴子、光子、富子、公康、誠子、浅子、烏丸光徳室 |
妻 | 正親町順子(正親町実徳の娘) |
子 |
公大、修次郎、満三郎、民四郎、賀子、布幾、芳子 養子:公康 |
四辻 公賀(よつつじ きんよし)は、江戸時代末期から明治時代の公卿。官位は正三位、参議。
経歴
[編集]権大納言四辻公績の子として生まれる。嘉永5年(1852年)に叙爵、翌嘉永6年(1853年)に元服、昇殿、文久元年(1861年)に侍従、従四位下に昇進、慶応元年(1865年)に参議、翌慶応2年(1866年)に従三位に昇進した。維新後は越後府知事・陸軍将・宮内権大丞・雅楽助を歴任した。
官歴
[編集]- 嘉永5年12月19日(1853年1月28日) ー 従五位下
- 嘉永6年3月27日(1853年5月4日) ー 元服、昇殿、従五位上
- 安政2年2月17日(1855年4月3日) ー 正五位下
- 文久元年1月23日(1861年3月4日) ー 侍従
- 文久元年2月11日(1861年3月21日) ー 従四位下
- 文久2年10月28日(1862年12月19日) ー 右近衛権少将
- 文久3年1月5日(1863年2月22日) ー 従四位上
- 文久3年9月20日(1863年11月1日) ー 右近衛権中将
- 元治元年3月23日(1864年4月28日) ー 正四位下
- 慶応元年12月23日(1866年2月8日) ー 参議
- 慶応2年2月10日(1866年3月26日) ー 従三位
- 慶応4年7月27日(1868年9月13日) ー 越後府知事
- 明治元年9月9日(1868年10月24日) ー 陸軍将
- 明治2年2月23日(1869年4月4日) ー 正三位
- 明治3年11月8日(1870年12月29日) ー 雅楽助
- 明治4年8月12日(1871年9月26日) ー 式部寮七等
- 明治5年11月24日(1872年12月24日) ー 大掌典
- 明治6年(1873年6月5日) ー 大伶人
家族
[編集]脚注
[編集]- ^ a b 『平成新修旧華族家系大成』上巻, p. 721.
- ^ a b c 『平成新修旧華族家系大成』下巻, pp. 718–719.
参考文献
[編集]- 『平成新修旧華族家系大成』上巻、霞会館編、吉川弘文館、1996年。
- 『平成新修旧華族家系大成』下巻、霞会館編、吉川弘文館、1996年。