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四条房名

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
四条房名
時代 鎌倉時代初期 - 中期
生誕 寛喜元年(1229年
死没 正応元年6月15日1288年7月14日
官位 正二位大納言
主君 後堀河天皇四条天皇後嵯峨天皇後深草天皇亀山天皇後宇多天皇伏見天皇
氏族 四条家
父母 父:四条隆親、母:坊門信家の娘
兄弟 房名隆顕鷲尾隆良、隆任、隆遍、近子、隆子、識子
房衡房成季衡
養子:隆名
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四条 房名(しじょう ふさな)は、鎌倉時代初期から中期にかけての公卿大納言四条隆親の長男。官位正二位・大納言。

経歴

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嘉禎3年(1237年従五位下叙爵仁治元年(1240年)従五位上・三河守に叙任され、仁治2年(1241年正五位下に叙せられる。

仁治3年(1242年従四位下に叙せられる。寛元2年(1244年)従四位上・三河守に叙任され、年預別当に補任。宝治元年12月(1248年1月)左馬頭に任ぜられ、翌宝治2年12月(1249年1月)に従三位に叙せられ公卿に列した。建長元年12月(1250年1月)右兵衛督、建長2年12月(1251年1月)には左兵衛督に転じ、建長3年(1251年正三位皇太后宮権大夫に叙任。

建長6年(1254年従二位正嘉元年(1257年)には正二位に叙せられるが、その後は散位が続いた。弘安元年12月(1279年2月)、ついに参議に任ぜられ、弘安2年(1279年加賀権守を兼ねた。弘安5年(1282年元日節会に参らなかったことにより解却されるが、12日後に復任している。

弘安6年(1283年)左兵衛督を兼ねる。弘安7年(1284年)には権中納言、さらに弘安8年(1285年)大納言に任ぜられるが同年辞職。本座を聴される。正応元年(1288年)6月15日薨去。享年60。

官歴

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※以下、『公卿補任』の記載に従う。

  • 嘉禎3年(1237年)正月24日:従五位下に叙す。
  • 仁治元年(1240年
    • 11月12日:従五位上に叙す(臨時)。
    • 12月18日(1241年1月31日):三河守に任ず。
  • 仁治2年(1241年
    • 3月26日:守を止む。
    • 10月16日:正五位下に叙す。
  • 仁治3年(1242年)正月5日:従四位下に叙す(臨時)。
  • 寛元2年(1244年
    • 正月5日:従四位上に叙す(中宮當年御給)。
    • 正月29日:三河守に任じ、年預別当に補す。
  • 宝治元年12月8日(1248年1月5日):左馬頭に任ず。
  • 宝治2年12月17日(1249年1月2日):従三位に叙す。
  • 建長元年12月24日(1250年1月28日):右兵衛督に任ず。
  • 建長2年12月24日(1251年1月17日):左兵衛督に転ず。
  • 建長3年(1251年
    • 正月22日:皇后宮権大夫を兼ぬ。
    • 3月26日:権大夫を止む。
    • 12月23日(1252年2月4日):正三位に叙す。
  • 建長6年(1254年)正月5日:従二位に叙す。
  • 正嘉元年(1257年)9月8日:正二位に叙す。
  • 弘安元年12月25日(1279年2月7日):参議に任ず。
  • 弘安2年(1279年
    • 正月24日:加賀権守を兼ぬ。
    • 9月6日:服解す(父)。
  • 弘安3年(1280年)7月20日:復任す。
  • 弘安5年(1282年
    • 正月5日:元旦節会に参ぜずに依り現任を解却す。
    • 正月17日:還任。即日射礼参行。
  • 弘安6年(1283年)3月28日:左兵衛督を兼ぬ。
  • 弘安7年(1284年)正月13日:権中納言に任ず。
  • 弘安8年(1285年
    • 3月6日:大納言に任ず。
    • 8月11日:辞任す。
    • 8月25日:本座を聴す。
  • 正応元年(1288年)6月15日:薨去[1]

系譜

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脚注

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  1. ^ または10日(『尊卑分脈』)。