四条房名
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時代 | 鎌倉時代初期 - 中期 |
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生誕 | 寛喜元年(1229年) |
死没 | 正応元年6月15日(1288年7月14日) |
官位 | 正二位、大納言 |
主君 | 後堀河天皇→四条天皇→後嵯峨天皇→後深草天皇→亀山天皇→後宇多天皇→伏見天皇 |
氏族 | 四条家 |
父母 | 父:四条隆親、母:坊門信家の娘 |
兄弟 | 房名、隆顕、鷲尾隆良、隆任、隆遍、近子、隆子、識子 |
子 |
房衡、房成、季衡 養子:隆名 |
四条 房名(しじょう ふさな)は、鎌倉時代初期から中期にかけての公卿。大納言・四条隆親の長男。官位は正二位・大納言。
経歴
[編集]嘉禎3年(1237年)従五位下に叙爵。仁治元年(1240年)従五位上・三河守に叙任され、仁治2年(1241年)正五位下に叙せられる。
仁治3年(1242年)従四位下に叙せられる。寛元2年(1244年)従四位上・三河守に叙任され、年預別当に補任。宝治元年12月(1248年1月)左馬頭に任ぜられ、翌宝治2年12月(1249年1月)に従三位に叙せられ公卿に列した。建長元年12月(1250年1月)右兵衛督、建長2年12月(1251年1月)には左兵衛督に転じ、建長3年(1251年)正三位・皇太后宮権大夫に叙任。
建長6年(1254年)従二位、正嘉元年(1257年)には正二位に叙せられるが、その後は散位が続いた。弘安元年12月(1279年2月)、ついに参議に任ぜられ、弘安2年(1279年)加賀権守を兼ねた。弘安5年(1282年)元日節会に参らなかったことにより解却されるが、12日後に復任している。
弘安6年(1283年)左兵衛督を兼ねる。弘安7年(1284年)には権中納言、さらに弘安8年(1285年)大納言に任ぜられるが同年辞職。本座を聴される。正応元年(1288年)6月15日薨去。享年60。
官歴
[編集]※以下、『公卿補任』の記載に従う。
- 嘉禎3年(1237年)正月24日:従五位下に叙す。
- 仁治元年(1240年)
- 11月12日:従五位上に叙す(臨時)。
- 12月18日(1241年1月31日):三河守に任ず。
- 仁治2年(1241年)
- 3月26日:守を止む。
- 10月16日:正五位下に叙す。
- 仁治3年(1242年)正月5日:従四位下に叙す(臨時)。
- 寛元2年(1244年)
- 正月5日:従四位上に叙す(中宮當年御給)。
- 正月29日:三河守に任じ、年預別当に補す。
- 宝治元年12月8日(1248年1月5日):左馬頭に任ず。
- 宝治2年12月17日(1249年1月2日):従三位に叙す。
- 建長元年12月24日(1250年1月28日):右兵衛督に任ず。
- 建長2年12月24日(1251年1月17日):左兵衛督に転ず。
- 建長3年(1251年)
- 正月22日:皇后宮権大夫を兼ぬ。
- 3月26日:権大夫を止む。
- 12月23日(1252年2月4日):正三位に叙す。
- 建長6年(1254年)正月5日:従二位に叙す。
- 正嘉元年(1257年)9月8日:正二位に叙す。
- 弘安元年12月25日(1279年2月7日):参議に任ず。
- 弘安2年(1279年)
- 正月24日:加賀権守を兼ぬ。
- 9月6日:服解す(父)。
- 弘安3年(1280年)7月20日:復任す。
- 弘安5年(1282年)
- 正月5日:元旦節会に参ぜずに依り現任を解却す。
- 正月17日:還任。即日射礼参行。
- 弘安6年(1283年)3月28日:左兵衛督を兼ぬ。
- 弘安7年(1284年)正月13日:権中納言に任ず。
- 弘安8年(1285年)
- 3月6日:大納言に任ず。
- 8月11日:辞任す。
- 8月25日:本座を聴す。
- 正応元年(1288年)6月15日:薨去[1]。