喩熙杰
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喩熙杰(喩熙傑) | |
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『華北経済使節団訪日録』(1939 年) | |
プロフィール | |
出生: | 1899年(清光緒25年)3月[1][2] |
死去: | 不詳 |
出身地: | 清四川省内江県 [1] |
職業: | 実業家・政治家 |
各種表記 | |
繁体字: | 喻熙傑 |
簡体字: | 喻熙杰 |
拼音: | Yù Xījié |
ラテン字: | Yü Hsi-chieh |
和名表記: | ゆ きけつ |
発音転記: | ユー・シージエ |
喩 熙杰(喩 熙傑)(ゆ きけつ、1899年3月 – 没年不詳)は、中華民国の実業家・政治家。北京市の有力実業家である一方で、中華民国臨時政府、南京国民政府(汪兆銘政権)華北政務委員会で各職を歴任した。
事績
[編集]明治大学高等専攻科卒[3]。成城学校教師、冀察政務委員会外交委員会組長、北京地方維持会顧問兼総務処長、南満洲鉄道北支事務局参与、中日実業株式会社専務などを歴任。その後、中華民国新民会事務総長兼組織部長となる[4]。
1942年末に新民会会長の王揖唐が退任、副会長の殷同が死去したことに伴い、1943年(民国32年)1月20日に喩熙杰は副会長に昇格した(会長は朱深が就任)[5]。その後は華北政務委員会委員、新国民運動促進委員会委員[6]、国民政府委員[7]を歴任した。1945年(民国34年)2月20日、華北政務委員会常務委員に昇格している[8]。
日本敗北後は蔣介石の国民政府に逮捕され、1948年(民国37年)4月29日、河北高等法院において懲役10年の判決を言い渡された[9]。
以後、喩熙杰の行方は不詳である。
脚注
[編集]- ^ a b 満蒙資料協会編(1942)、159頁。
- ^ 日満工業新聞社編『日満工業紳士録 昭和十五年版』日満工業新聞社、1940、624頁。「明治32年」との記載がある。
- ^ 日華学会学報部編『留日中華学生名簿 昭和六年五月現在』日華学会、290頁。
- ^ 満蒙資料協会編(1942)、159-160頁。
- ^ 岡田編(1987)、101頁。
- ^ 1943年4月7日就任。『国際月報』29号、情報局、1943年5月25日、133頁。
- ^ 1945年1月18日就任。『同盟時事月報』9巻1号通号224号、1945年2月14日、同盟通信社、88頁。
- ^ 『同盟時事月報』9巻2号通号225号、1945年3月14日、同盟通信社、78頁。
- ^ 時事通信社編『時事年鑑 昭和24年版』1948年、189頁。
参考文献
[編集]- 岡田春生編『新民会外史黄土に挺身した人達の歴史 後編』五稜出版社、1987年。
- 満蒙資料協会編『中国紳士録 第二版』満蒙資料協会、1942年。