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足利頼純

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
喜連川頼純から転送)
 
足利 頼純 / 頼淳
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 天文元年(1532年
死没 慶長6年5月4日1601年6月4日
改名 国王丸[注 1](幼名)→頼純
別名 頼淳[注 2]、喜連川頼純
戒名 機公、龍光院殿全山機公
官位 左兵衛督
氏族 足利氏小弓公方
父母 父:足利義明
兄弟 義純頼純雪下等覚院某、
青岳尼里見義弘正室)、足利晴直(上杉憲寛)正室、旭山尼
女子、月桂院豊臣秀吉側室)、国朝頼氏、瓊山法清尼(東慶寺19世)
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足利 頼純 / 頼淳(あしかが よりずみ / よりあつ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武士。『寛政重修諸家譜』では頼純[1]、『喜連川判鑑』では頼淳[2]。別名に喜連川頼純左兵衛督[2]

生涯

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天文元年(1532年)、小弓公方足利義明の次男として誕生した。童名は国王丸[2]

天文7年(1538年)に第一次国府台合戦で父・義明が戦死すると、安房国里見氏を頼って落ち延び、その庇護を受けた。幼時には石堂寺に預けられたとみられている[3]

元服後は小田喜に滞在した[4]里見義頼梅王丸の家督争いの際には義頼に偏諱を与えたとする見方がある一方[5]で、それに続く義頼と正木憲時の争いの時には後者についたとする見方がある(千野原靖方説)。後北条氏豊臣秀吉による小田原征伐によって下総国から撤退すると、その機に乗じて里見義康と共に父が住した小弓城を奪還した様である[注 3]。「義」の字を家臣の逸見氏に付与しており、意識の上では関東足利氏正統として、その秩序の管理者として振る舞っていた[4]

娘の嶋子(のちの月桂院)が秀吉の側室となったことと、足利氏の血を引くことから大名として復帰を許され、嫡男・国朝下野国喜連川城を領した。他に娘として鎌倉東慶寺19世瓊山法清がいる。

慶長6年(1601年)、喜連川で死去した[1]。『寛政重修諸家譜』では5月4日[1]、『喜連川判鑑』では5月14日[2]、と日付に差異がある。法名について、『寛政重修諸家譜』では機公[1]、『喜連川判鑑』では龍光院殿全山機公[2]、としている。

脚注

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注釈

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  1. ^ 系譜類には国王丸とされるが、天文14年(1545年)に作成された石堂寺多宝塔には「千寿丸 生年十四歳」と記されている。
  2. ^ 一般的には「頼純」と表記されているが、今日遺されている本人の直筆の署名の名乗りは「頼淳」である。『喜連川判鑑』にも「頼淳」と記されている。
  3. ^ 山中長俊増田長盛に充てた書状では、頼純が小弓に在城していたように記されている。

出典

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  1. ^ a b c d 寛政譜 1922, p. 432.
  2. ^ a b c d e 古河市史編さん委員会 1981, p. 712.
  3. ^ 大野太平「喜連川頼氏の寄寓について」『房総郷土研究』2巻1号、1935年。 
  4. ^ a b 滝川恒昭「小弓公方家臣・上総逸見氏について―国立国会図書館所蔵「逸見文書」の紹介―」『中世房総』6号、1992年。 
  5. ^ 佐藤博信 著、荒川善夫; 佐藤博信; 松本一夫 編『中世下野の権力と社会』岩田書院〈中世東国論3〉、2009年。ISBN 978-4-87294-561-4 

参考文献

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