喜多村久通
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時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 正徳2年(1712年) |
死没 | 寛延元年9月19日(1748年10月11日) |
別名 | 監物、長命、燕子(俳号) |
墓所 | 青森県弘前市の貞昌寺 |
主君 | 津軽信寿→信著→信寧 |
藩 | 陸奥弘前藩 |
氏族 | 喜多村氏 |
父母 | 喜多村政方、母:大道寺友山娘・衛子 |
兄弟 | 久通、建部綾足 |
妻 | そね |
子 | 久敬 |
喜多村 久通(きたむら ひさみち)は、江戸時代中期の弘前藩士。
生涯
[編集]享保11年(1726年)元服した。その際「長命」より「監物」とした。享保14年(1729年)、父・喜多村政方の死を受け家督を継ぎ、翌享保15年(1730年)9月に結婚した。しかし、元文3年(1738年)2月に妻・そねと弟・久域(後の建部綾足)の密通が露呈し、妻とは離縁、久域は弘前を離れた。そねは翌年死亡。
元文4年(1739年)、表書院番頭から用人兼帯となり、寛保2年(1742年)5月に家老となった。同時に津軽姓も許可された。延享2年(1745年)10月、お役御免となり蟄居した。その際「鳥追いしかかしの果や壁のへた」という句を残している。翌延享3年(1746年)、蟄居を解かれたが、隠居となり、家督200石は召し上げとなった。和歌を嗜み、風流人であった。
参考文献
[編集]- 「青森県人名大事典」1969年、東奥日報社