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喜多村久通

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
喜多村久通
時代 江戸時代中期
生誕 正徳2年(1712年
死没 寛延元年9月19日1748年10月11日
別名 監物、長命、燕子(俳号)
墓所 青森県弘前市貞昌寺
主君 津軽信寿信著信寧
陸奥弘前藩
氏族 喜多村氏
父母 喜多村政方、母:大道寺友山娘・衛子
兄弟 久通建部綾足
そね
久敬
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喜多村 久通(きたむら ひさみち)は、江戸時代中期の弘前藩士。

生涯

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享保11年(1726年元服した。その際「長命」より「監物」とした。享保14年(1729年)、父・喜多村政方の死を受け家督を継ぎ、翌享保15年(1730年)9月に結婚した。しかし、元文3年(1738年)2月に妻・そねと弟・久域(後の建部綾足)の密通が露呈し、妻とは離縁、久域は弘前を離れた。そねは翌年死亡。

元文4年(1739年)、表書院番頭から用人兼帯となり、寛保2年(1742年)5月に家老となった。同時に津軽姓も許可された。延享2年(1745年)10月、お役御免となり蟄居した。その際「鳥追いしかかしの果や壁のへた」という句を残している。翌延享3年(1746年)、蟄居を解かれたが、隠居となり、家督200石は召し上げとなった。和歌を嗜み、風流人であった。

参考文献

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  • 「青森県人名大事典」1969年、東奥日報社