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和智治郷

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
和智治郷
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 不詳
死没 天正4年(1576年
官位 信濃守
主君 毛利元就隆元輝元
氏族 藤原北家秀郷流波多野氏庶流和智氏
由郷
特記
事項
嫡男の由郷が早世したため、嫡孫の元次が後を継いだ。
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和智 治郷(わち はるさと)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将備後国国人である和智氏の一門で、毛利氏の家臣。

生涯

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具体的な系譜は不明だが、備後国三谿郡吉舎[注釈 1]南天山城を本拠とした国人である和智氏に生まれる。

弘治3年(1557年9月18日毛利氏の五奉行である赤川元保粟屋元親児玉就忠国司元相桂元忠から周防国玖珂郡岩国において10貫文の地を与える旨の打渡状を発給される[注釈 2][1][2]

天正4年(1576年)に死去[3]。嫡男の由郷(生右衛門)は早世しており[3]、同年9月26日に嫡孫の元次が「中尾姥」の死後に家督と所領を相続することを毛利輝元に認められた[4]

脚注

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注釈

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  1. ^ 現在の広島県三次市吉舎町
  2. ^ 治郷に与えられた10貫文の地の内訳は、①源ゑい抱えの「おくやた」の田1段600文、②同じく源ゑい抱えの「おそ川」の田2段1貫600文、③孫六抱えの「南大ら」の田4段小3貫文、④彦左衛門の「あそう田」の田3段2貫400文、⑤孫次郎の「あそう田」の田2段800文、四郎丸の畠3段2貫文[1]

出典

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  1. ^ a b 『閥閲録』巻131「和智孫九郎」第1号、弘治3年(1557年)9月18日付け、和智信濃守(治郷)殿宛て、赤川左京亮(元保)、粟屋右京亮(元親)、兒玉三郎右衛門(就忠)、國司右京亮(元相)、桂左衛門大夫(元忠)連署打渡状。
  2. ^ 岩国市史 上 1987, p. 101.
  3. ^ a b 『閥閲録』巻131「和智孫九郎」家譜。
  4. ^ 『閥閲録』巻131「和智孫九郎」第5号、天正4年(1576年)9月26日付け、和智藤四郎(元次)殿宛て(毛利)輝元書状。

参考文献

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  • 岩国市史編纂委員会 編『岩国市史 上』臨川書店、1987年6月。全国書誌番号:87042326 国立国会図書館デジタルコレクション
  • 山口県文書館編『萩藩閥閲録』巻131「和智孫九郎」