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呉錫永

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
呉錫永
プロフィール
出生: 1880年[1][2]
死去: 不詳
出身地: 清の旗 浙江省呉興県 [1][2]
職業: 軍人・官僚・政治家
各種表記
繁体字 吳錫永
簡体字 吴锡永
拼音 Wú Xīyǒng
ラテン字 Wu Hsi-yung
和名表記: ご しゃくえい
発音転記: ウー・シーヨン
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呉 錫永(ご しゃくえい、1880年 – 没年不詳)は清末・中華民国の軍人・官僚・政治家。字は仲言[1]

事績

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清末に日本へ留学し、陸軍士官学校第1期歩兵科を卒業した。帰国後は南京に至り、第9鎮統制・徐紹楨の下で協統となる。両広総督督錬公署督弁まで昇進したが、黄興率いる革命派の爆弾テロに遭い右脚を喪失し、以後、軍職を離れることになった[1][3]

辛亥革命の後はいったん上海に留まり、英国サミュエル商会の代理店を営んだ[3]中華民国成立後は北京政府に入り、浦口商埠局幇弁[4]、大総統府秘書、国務院秘書などを歴任する[1]1923年(民国12年)2月8日、財政部秘書に任用され、同年7月9日、外交部膠澳交渉員に移った[5]。その他にも、山東捲煙特税局長、山東省政府公署秘書長、北京市政公署(北京特別市政府)秘書を歴任している。

1929年(民国18年)6月13日、呉錫永は上海特別市政府財政局局長に起用された[5]。同年、江海関監督代理を兼任している[1]1931年(民国20年)3月27日、国民政府主計処秘書に就任し、4月11日に上海市財政局長の兼務を解除されている。主計処秘書については、1938年(民国27年)1月21日までつとめた[5]

その後、南京国民政府(汪兆銘政権華北政務委員会に呉錫永は参与し、1940年(民国29年)5月4日、財務総署署長代理(総署督弁:汪時璟[6]に任命された[7]1943年(民国32年)3月8日、故宮博物院臨時理事を兼任している[8]。同年11月16日、華北政務委員会組織改革に伴い、呉は経済総署署長代理へと異動した(総署督弁:汪時璟)[9]

日本敗戦後における呉錫永の行方は不詳である[10]

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  1. ^ a b c d e f 外務省情報部編(1937)、149頁。
  2. ^ a b 東亜問題調査会編(1941)、53頁。
  3. ^ a b 外務省情報部編(1928)、705-706頁。
  4. ^ 劉恩源が浦口商埠督弁になった時のため、1914年(民国3年)4月15日ごろのことと考えられる。
  5. ^ a b c 中華民国政府官職資料庫「姓名:吳錫永」
  6. ^ 華北政務委員会の総署においては、督弁と署長で正副の関係にある。
  7. ^ 華北政務委員会任用令、任字第54号、民国29年5月4日(『華北政務委員会公報』第1-6期合刊、民国29年6月9日、華北政務委員会政務庁情報局、本会16頁)。
  8. ^ 華北政務委員会令、会字第999号、民国32年3月8日(『華北政務委員会公報』第199・200期合刊、民国32年4月9日、本会1頁)。
  9. ^ 華北政務委員会令、政字第26号、民国32年11月16日(『華北政務委員会公報』第250期、民国32年12月16日、本会1頁)。
  10. ^ 中国語版wikipediaによれば呉錫永は漢奸指名を受けたとしているが、根拠史料は不明。

参考文献

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  • 外務省情報部編『現代中華民国満洲国人名鑑 昭和十二年版』東亜同文会業務部、1937年。 
  • 東亜問題調査会『最新支那要人伝』朝日新聞社、1941年。 
  • 外務省情報部編『現代支那人名鑑 改訂』東亜同文会調査編纂部、1928年。 
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1