呉禎
呉 禎(ご てい、? - 洪武12年5月26日(1379年6月11日))は、元末明初の軍人。初名は国宝であったが、後に禎の名を賜る。定遠(現在の安徽省定遠県)の人。兄の呉良と共に朱元璋に仕え、明建国の功臣となった。
生涯
[編集]至正13年(1353年)、定遠攻略に参加した24将の1人。滁州・和州を相次いで攻略し、集慶を陥落させた。鎮江・広徳・常州・宣城・江陰での戦いで功績をあげた。常遇春の下で、銅陵及び池州を攻略した。天興翼副元帥に任じられ、1千人を率いて、呉良が守る江陰に屯した。防御を固め、兵を良く指揮して、張士誠による度々の攻撃を防いだ。張士誠の将の蘇同が江陰に攻めてきた。呉禎は北門から出撃し、王子明が南門から出撃して挟み撃ちによって敵を大破した。その功により、英武衛親軍指揮使に任じられた。その後、徐達の下で、湖州を平定した。大都督府事に進み、平江を鎮撫した。
至正27年(1367年)10月、湯和の下で、方国珍を攻撃した。呉禎は船を使い、方国珍軍に奇襲をかけた。不意を衝かれた方国珍は海上へ逃亡した。呉禎はこれを追い、逃げられぬと悟った方国珍は投降した。その後、海路から福州を攻撃した。洪武元年(1368年)、延平を攻撃し、陳友定を捕らえた。左相兼金大都督府事に任じられた。洪武3年(1370年)、沂州の山賊を討伐し、靖海将軍に任じられて海上を防備した。同年、靖海侯となり、食禄1千5百石を与えられる。
仇成が遼陽を守ることになり、呉禎は数万の水軍を率いて、山東・登州からの物資を遼陽に送った。呉禎の水軍により、海路の安全が保たれたので、遼陽地域は物資に不足することはなかった。そして、遼河の東部を攻略することができた。洪武7年(1376年)、倭寇が侵攻したとの知らせがあり、呉禎は水軍を率いて、倭寇と戦った。琉球の近くまで追いかけ、倭寇を捕獲することに成功する。これ以後、呉禎の在任期間中に倭寇が侵攻することはなかった。
洪武11年(1378年)、遼東へ出征するが、病を得て南京へ帰還する。翌洪武12年(1379年)、死去。海国公に封ぜられ、襄毅と諡された。呉良と共に、功臣廟に肖像が奉られた。洪武23年(1390年)、胡惟庸の獄に追座して除爵された。
関連項目
[編集]- 明・清王朝の皇帝墓群 - 世界遺産として呉良・呉禎兄弟の墓が登録されている。
参考文献
[編集]- 『明史』巻131 列伝第20