呉三連
呉 三連(ご さんれん、1899年11月15日 - 1988年12月29日)は、中華民国の政治家、日本のジャーナリスト。初代民選台北市長。
生涯
[編集]日本統治時代の台湾の嘉義県の寒村頭港仔出身。1919年台湾総督府国語学校国語部を卒業し、東京高等商業学校(現一橋大学)予科に進学。留学中日本統治下の台湾における台湾人政治運動に加わり、1920年新民会、東京台湾青年会に参加。同年下村宏台湾総督府総務長官と面会し日本の植民地政策を批判し、その後台湾議会設置運動に参加した[1]。
1925年東京商科大学(現一橋大学)卒業。陸上競技部出身[2]。卒業後大阪毎日新聞記者となる[3]。1932年台湾新民報が創刊されると編集者として台湾に戻り、論説委員、整理部長、政治部長を兼任した[4]。1933年に台湾新民報東京支局が開設されると、東京支局長に就いた[5]。
1938年蔡培火とともに東京警視庁に勾留を受け[6]、その後も日本政府による台湾における米政策に対する批判などを展開したため、1940年には辞任を余儀なくされた[7]。同年満州国を訪れ、一橋の後輩である満州中央銀行の呉金川の仲人となっている[8]。1941年汪兆銘政権の華北政務委員会北京市で大治株式会社に勤務。1942年から天津市で染料の売買に携わった[7]。
日本の降伏後、1946年の制憲国民大会代表選において最多得票数で当選した。1947年第1回中華民国国民大会代表選でも多くの投票を得て当選し、李宗仁や孫科と中華民国副総統の座を争った。1950年蔣介石総統の召見を受け、台北市長に選出される。1951年初代民選台北市長に当選[9]。1954年心身の疲労のため市長選に出馬せず、台湾省議会議員となった[10]。
脚注
[編集]- ^ 《吳三連回憶錄》吳三連口述,吳豐山撰1952年吳三連長子吳逸民就讀台大,因受同學歐振隆介紹加入台湾民主自治同盟,後省工委台大法學院支部案遭破獲後,吳逸民亦遭到保密局逮捕,當時吳三連曾託人出面說情,但時值國共內戰結束之際,許多資料顯示共諜滲透致使戰事失利,如傅作義女兒洩漏軍情,蔣介石非常痛恨共產黨,同時也正處於韓戰爆發,大肆搜捕共黨的階段,台電董事長劉晉鈺甚至因為兒子的家書而遭懷疑被策反而槍決,無法說動高層,吳三連只得用市長身分去台北監獄視察,趁機偷偷去看吳逸民。[8] 1954年吳三連在臺南縣議會議長邀請下參選臺灣省議員並當選,1957年連任。任內與郭雨新、郭國基、李源棧、李萬居並稱為「黨外五虎將」,吳三連在這段期間不但投入《自立晚報》的經營,也參與雷震的組黨運動[9]。1960年在第二任省議員任期屆滿,由於感到體力不能承受,加上選風敗壞,以及背負太多「人情債」,吳三連決定不再尋求連任[10]。述,《自立晚報》出版,1991年,頁38
- ^ 「「陽明会の“絆”」・・・青木 俊樹(昭和42年卒)」如水会会報橋畔随想 (2011年8/9月)
- ^ 《吳三連回憶錄》同上,頁66-67
- ^ 《吳三連回憶錄》同上,頁71
- ^ 《吳三連回憶錄》同上,頁82
- ^ 《吳三連回憶錄》同上,頁93-94
- ^ a b 《吳三連回憶錄》同上,頁91
- ^ (中国語) 口述歷史(五). 中央研究院近代史研究所. (2015-08-31). ISBN 9789860458800
- ^ 《吳三連回憶錄》同上,頁152
- ^ 李筱峰, 台灣戒嚴時期政治案件的類型 Archived 2014-10-09 at the Wayback Machine.、新台灣新聞周刊,2000/11/23