吉田㥲
吉田 㥲(よしだ しん、1887年4月15日 - 1965年6月12日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。旧姓・渡辺。吉田悳とも表記されるが誤りである[1]。
経歴
[編集]山形県出身。庄内藩士、陸軍少佐・渡辺述の二男として生れ、吉田家を継いだ。大阪陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1908年(明治41年)5月、陸軍士官学校(20期)を卒業。同年12月、騎兵少尉に任官し近衛騎兵連隊付となった。1917年(大正6年)11月、陸軍大学校(29期)を卒業した。
1918年(大正7年)7月、参謀本部付勤務となり、参謀本部員(フランス班)、欧州出張(トルコ、パリ)、参謀本部員(戦史課)などを経て、1923年(大正12年)8月、騎兵少佐に昇進。1924年(大正13年)12月、陸軍省軍務局課員となり、陸大教官に転じ、1928年(昭和3年)3月、騎兵中佐に進級。翌年12月、皇族付武官兼参謀本部付となり、1931年(昭和6年)8月、騎兵大佐に昇進した。
1932年(昭和7年)2月、騎兵第16連隊長に就任し、軍務局馬政課長、農林省馬政局資源課長を歴任し、1936年(昭和11年)8月、陸軍少将に進級し陸軍騎兵学校幹事に着任した。1937年(昭和12年)7月、農林省馬政局次長に発令。この間、1936年10月から翌年8月にかけて二・二六事件の軍法会議で裁判長として西田税・北一輝を死刑に処しているが、吉田は死刑を求める軍上層部の意向に反発し、期日が大幅に遅れるなどした。当時の日記にも疑問や苦悩を書き綴っている[2]。1939年(昭和14年)1月、駐蒙軍隷下の騎兵集団長に就任し、同年3月、陸軍中将に進んだ。同年10月、騎兵監となり、陸軍機甲本部長として太平洋戦争を迎えた。
1942年(昭和17年)6月、新設の機甲軍司令官に就任し満洲に駐屯。1943年(昭和18年)10月、参謀本部付となり、同年12月、関東防衛軍司令官に着任。1945年(昭和20年)3月、予備役に編入され同月、満洲電信電話株式会社総裁に就任した。
1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[3]。
『機甲斯くあるべし』
[編集]初代陸軍機甲本部長である吉田は、機甲兵の模範である、『機甲斯くあるべし』の文言を発案したとされている[4]。
「一瞥克制機」(いちべつ よく きをせいし)
「万信必通達」(ばんしん かならず つうたつ)
「千車悉快走」(せんしゃ ことごとく かいそう)
「百発即百中」(ひゃっぱつ すなわち ひゃくちゅう)
「練武期必勝」(れんぶ ひっしょうを きし)
「陣頭誓報告(国)」(じんとう ほうこくを ちかう)
『機甲斯くあるべし』は戦中だけでなく、戦後の陸上自衛隊機甲科においても「模範」とされ、現代でも訓練の際の訓示などで用いられている[4]。
栄典
[編集]- 位階
- 1909年(明治42年)3月1日 - 正八位[5]
- 1912年(明治45年)3月1日 - 従七位[6]
- 1917年(大正6年)3月20日 - 正七位[7]
- 1922年(大正11年)4月20日 - 従六位[8]
- 1927年(昭和2年)5月16日 - 正六位[9]
- 1931年(昭和6年)9月15日 - 従五位[10]
- 1936年(昭和11年)10月1日 - 正五位[11]
- 勲章等
- 1940年(昭和15年)8月15日 - 紀元二千六百年祝典記念章[12]
著書
[編集]- 『一軍人の随想録』自衛隊教養文庫・第14、学陽書房、1961年。
脚注
[編集]- ^ 「一軍人の随想録」国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 筒井清忠『二・二六事件と青年将校』(吉川弘文館、2014年)212頁
- ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」193頁。
- ^ a b 帝国陸軍「機甲創設の父」の言葉と若手自衛官の凛々しさ - 産経新聞WEST(2014年12月23日配信)
- ^ 『官報』第7701号「叙任及辞令」1909年3月2日。
- ^ 『官報』第8608号「叙任及辞令」1912年3月2日。
- ^ 『官報』第1389号「叙任及辞令」1917年3月22日。
- ^ 『官報』第2913号「叙任及辞令」1922年4月21日。
- ^ 『官報』第151号「叙任及辞令」1927年7月1日。
- ^ 『官報』第1434号「叙任及辞令」1931年10月8日。
- ^ 『官報』第2928号「叙任及辞令」1936年10月3日。
- ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。