吉川経盛
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時代 | 鎌倉時代末期 - 南北朝時代 |
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生誕 | 正応3年(1290年) |
死没 |
正平13年/延文3年8月3日(1358年9月6日)? もしくは同年9月26日(1358年10月29日)[1]? |
改名 | 益熊丸、益熊[1](幼名)→経盛→如空(法名) |
別名 | 五郎次郎[1] |
主君 | 鎌倉幕府→足利尊氏 |
氏族 | 藤原南家工藤流吉川氏 |
父母 | 父:吉川経高[1] |
兄弟 | 経盛、経長[1]、経頼 |
妻 | 正室:吉川経茂女 |
子 | 経秋[1] |
吉川 経盛(きっかわ つねもり)は、南北朝時代の武士。安芸国の国人・吉川氏6代当主。駿河丸城主。
生涯
[編集]元応元年(1319年)、父吉川経高の隠居に伴い家督を継いだ。建武2年(1335年)、後醍醐天皇を中心とした建武政権崩壊後の騒乱において、経盛は安芸守護・武田信武に従い、南朝方・熊谷蓮覚の矢野城を攻撃するなどした。また足利直義にも属して、石見国の南朝方とも干戈を交えた。
南北朝の騒乱の最中、経盛の従兄弟吉川経兼・経見父子は南朝方に帰順。観応の擾乱では足利直義方に味方して、足利尊氏方の経盛には従わなかった。経兼父子はその活躍により、南朝の後村上天皇から経兼駿河権守、経見は左衛門尉に任じられた。
経盛の弟・経長も南朝方に参加し、後醍醐天皇の綸旨を奉じて、伯耆国船上山に参上している。その子実経も新田義貞の御教書を奉じて、九州へと敗走した足利尊氏方の残党討伐に参加している。
経盛は一族の身勝手な行動に憂慮し、正平5年/貞和6年、観応元年(1350年)に嫡子の経秋に家督を譲り、正平13年/延文3年(1358年)に病死した。
一族の相克により吉川氏はその勢力を低下させることとなった。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 今井尭ほか編『日本史総覧』 3(中世 2)、児玉幸多・小西四郎・竹内理三監修、新人物往来社、1984年3月。ASIN B000J78OVQ。ISBN 4404012403。 NCID BN00172373。OCLC 11260668。全国書誌番号:84023599。
- 岡部忠夫編著『萩藩諸家系譜』琵琶書房、1983年8月。ASIN B000J785PQ。 NCID BN01905560。全国書誌番号:84027305。
- 北広島町史
- 中国新聞社『歴史紀行 安芸吉川氏』新人物往来社、1988年6月。ISBN 4-404-01517-8。
- 萩藩閥閲録