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吉川勇次

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

吉川 勇次(よしかわ ゆうじ、1915年1月20日 - 1977年2月6日)は、日本ヤクザ暴力団三代目山口組若頭補佐、初代吉川組組長。三重県度会郡出身。

来歴

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大正4年(1915年三重県度会郡に生まれた。

大正8年(1919年)、兵庫県神戸市に移住した。

昭和6年(1931年)、神戸二中(後の兵庫県立兵庫高等学校)に入学した。田岡一雄(後の三代目山口組組長)らと喧嘩を繰り返した。その後、父親の病死で神戸二中を中退した

昭和20年(1945年)終戦後、田岡一雄と再会した。

同年、田岡が神戸市兵庫区下沢通りで田岡組を作った。吉川勇次も田岡組に参加した。戦後の混乱で警察力は弱体化していた。田岡は、街や闇市の警備のために、神戸市新開地の「花月劇場を本拠地に「自警団」を結成し、闇市への不良在日外国人の干渉を排除した。

昭和21年(1946年)7月、山口組舎弟会が開かれた。山口登の若衆だった藤田仙太郎が、山口組三代目に、田岡一雄を提案した。舎弟頭・森川盛之助、舎弟・湊芳次ら全員が田岡一雄の山口組三代目就任に賛成した。これにより、田岡は山口組三代目に内定した。

同年10月13日[1]、田岡一雄の山口組三代目襲名式が、神戸市・新開地の食堂「ハナヤ食堂」[2]で行われた。参加者は10人程度だった。

同年10月17日、神戸市生田区相生町の料亭「三輪」で披露宴を行った。山口組三代目の初代若頭には、山田久一が就任した。このとき、岡精義[3]は田岡一雄の若衆(後に舎弟)となった。田岡一雄からの最初の盃を、吉川勇次が受けた。このとき、組員は、先代の舎弟6人、先代の若衆14人、田岡一雄の直系若衆13人だった。森川盛之助や湊芳次が、田岡の舎弟となった。安原武夫(後の三代目山口組七人衆)、安原政雄(後の三代目山口組若頭)の兄弟は、田岡の若衆となった。吉川の子分だった大川覚北山悟平松資夫らも田岡からを与えられた。

昭和38年(1963年)12月13日[4] 、 山口組「御事始」の席で若頭補佐を新設した。吉川勇次、山本健一菅谷政雄梶原清晴が若頭補佐に任命された。

同年、国鉄三宮駅前に、地下街「さんちかタウン」が建設されることが決まった。山本健一が、さんちかタウンの工事の用心棒を請け負うことになった。まもなく、山本健一は逮捕され、収監された。吉川勇次と地道行雄が、さんちかタウンの用心棒を、山口組直轄で行うようにした。地道行雄は、岡精義を通じて、さんちかタウンの建設を請け負った建設会社から、用心棒代を出させた。これが、後に田岡一雄に対する第一次頂上作戦の突破口となった。

昭和39年(1964年)1月 、「暴力取締対策要綱」が設置された。

同年2月、警視庁が「組織暴力犯罪取締本部」を設置し、暴力団全国一斉取締り(第一次頂上作戦」)を開始した。

同年3月26日、警察庁は改めて広域10大暴力団を指定した。10大暴力団は、神戸・山口組、神戸・本多会、大阪・柳川組、熱海・錦政会、東京・松葉会、東京・住吉会(会長は磧上義光)、東京・日本国粋会、東京・東声会、川崎日本義人党(党首は高橋義人)、東京・北星会だった。

昭和40年(1965年)、山口組に対する第1次頂上作戦が本格化した。

昭和51年(1976年)4月、吉川勇次、山本健一、小田秀臣ら山口組幹部8人は資本金6千万でビル管理を主業務とする「東洋信用実業」を設立し、役員となった。東洋信用実業は、「山口組会館」(後の四代目山口組本部)を建設した。また、それまで山口組幹部が田岡一雄の名代として使う慶弔の費用は、田岡から出ていたが、上納金(山口組会費)から出すようにした[5]。また、山口組若頭補佐が山口組幹部名で出す慶弔の費用も、上納金から出すようにした。

同月、田岡一雄は、菅谷政雄の謹慎を解くことを、山本健一に指示した。菅谷政雄は、若頭補佐を解任され、筆頭若衆に降格となった。

昭和52年(1977年)2月6日、死去。

脚注

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  1. ^ 飯干晃一『山口組三代目 1 《野望篇》』徳間書店<文庫>、1982年、ISBN 4-19-597344-9 では、「昭和21年(1946年)10月13日に田岡一雄の山口組三代目襲名式が行われた」としているが、溝口敦笠井和弘ももなり高『血と抗争! 菱の男たち 1』竹書房、2002年、ISBN 4-8124-5658-4 では、「山口組三代目襲名式が行われたのは、昭和21年8月」としている
  2. ^ 飯干晃一『山口組三代目 1 《野望篇》』徳間書店<文庫>、1982年、ISBN 4-19-597344-9 では「山口組三代目襲名式が行われた場所は、食堂『ハナヤ食堂』」としているが、溝口敦笠井和弘ももなり高『血と抗争! 菱の男たち 1』竹書房、2002年、ISBN 4-8124-5658-4 では「山口組三代目襲名式が行われたのは、神戸市須磨の割烹料亭『延命軒』」となっている
  3. ^ 昭和18年(1943年)、岡精義は、神戸港運株式会社を起こし、組長となっていた
  4. ^ 『山口組50の謎を追う』洋泉社2004年 ISBN 4-89691-796-0 のP.70や溝口敦笠井和弘ももなり高『血と抗争! 菱の男たち 1』竹書房、2002年、ISBN 4-8124-5658-4 のP.165では、「昭和38年(1963年)に若頭補佐が新設された」ことが明記されているが、『山口組50の謎を追う』洋泉社2004年 ISBN 4-89691-796-0 のP.113には「彼は昭和三十一年に田岡の舎弟となり、三十二年には若頭補佐の要職についているが、その時点で子分を持っていなかった」と記述(つまり、昭和32年の段階で若頭補佐のポストが既に存在していたことになる)されている
  5. ^ 田岡一雄と山口組若頭は、上納金(山口組会費)を免除されていた

吉川勇次関連の映画・オリジナルビデオ

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参考文献

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その他の役職
先代
(創設)
吉川組組長
初代:194* - 1977
次代
野上哲男