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史弼 (元)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

史 弼(し ひつ、1233年 - 1318年)は、モンゴル帝国に仕えた漢人将軍の一人。武略・民政に長けた有望な武官であったが、総司令を務めた至元30年(1293年)のジャワ遠征失敗で失脚したことで知られる。

概要

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生い立ち

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史弼の曾祖父は史彬という人物で、剛勇なことで知られていた。チンギス・カンの側近のムカリが兵を率いて蠡州に南下してきた時、蠡州の郡守は周囲の民を見捨てて城の門を閉ざしモンゴル軍を防ごうとした。これを聞いた史彬は息子たちに「このままでは民と手をつかねて死を待つのみである。いっそ死中に活を求めようではないか」と語り、地元の数百の家とともにムカリの軍営を訪れた。そもそもモンゴル帝国は抗戦する者に対しては厳しいが自発的に投降する者に対しては寛容で、ムカリも史彬の投降を歓迎して手を出さないことを約束し、結果として蠡州の中で史彬と行動をともにした者たちのみがモンゴル軍の略奪を免れることができたという[1]

史彬の曾孫の史弼はモンゴル語を習得したことと強弓を扱えることから潼関の守将の王彦弼に見いだされ、史弼は王彦弼の推薦を受けて左丞相の耶律鋳に仕えることになった。やがてクビライの近侍(ケシク)のコリダイが史弼の強弓使いを知ってクビライに紹介したため、クビライの御前で射的を披露する場が設けられ、そこで史は百発百中の技前見せたため、気に入られてクビライに直接仕えるようになった[2]

南宋侵攻

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その後、史弼は金符と管軍総管の地位を授けられて南宋遠征軍に従軍することになった。史弼は劉整の軍団に所属して襄陽攻めに加わり、至元10年(1273年)の戦いでは東北方面から襄陽に攻め上がり、敵将の牛都統を打ち取る武功を上げた。この功績により、史弼は懐遠大将軍・副万戸に任ぜられている。史弼は続いて南宋領侵攻にも加わり、沙洋堡の戦い(現在の湖北省荊門市沙洋県)では矢に当たりながらも戦い続け、城を陥落させた後には袖から血が絞れるほどの出血をしていたという。また、陽羅堡の戦い(現在の湖北省黄岡市黄州区)では戦前に総司令のバヤンが「先に長江南岸に渡りついた者を上功とする」という言葉を受けて奮戦して南岸に橋頭堡を作り、バヤンもその功績を認めて武功第一とした。これらの功績により、 史弼は更に定遠大将軍に任じられた[3]

揚州の戦いではアタカイ揚州へ進出するための要地である「揚子橋」に拠点を設けて驍将にこれを守らせるよう献策し、これに従ったバヤンによって史弼がこの作戦の指揮官に抜擢された。3千の兵を預けられた史弼は揚子橋付近に早速橋頭堡を設け、更に僅か数十騎をもって揚州城へ攻撃する準備を始めた。周囲の者は揚州の指揮官の姜才は屈強な将軍であり侮るべきではないと出兵を戒めたが、史弼は「姜才が優秀な将ならば、必ずわが軍の橋頭堡の防備が定まらない内に攻撃をしかけるだろう。我が軍はそれを待ち構えられるという利点がある」と述べた。果たしてその夜の内に姜才は夜襲をかけたが、それを待ち構えていた史弼軍は石を発砲して千人余りを死傷させ、更に史弼はこれに乗じて姜才軍を追撃し姜才は逃したものの張都統をとらえる功績を挙げた[4]

同年6月には姜才が再び夜襲をかけてきたが、史弼は3戦して3度とも姜才軍を撃退した。しかし、夜が明けると史弼軍の兵数が少ないことが露わとなり、姜才軍は改めて史弼軍を包囲した。そこで史弼は自ら殿を務めて自軍を撤退させ、アジュの援軍が至ると姜才軍を大いに打ち破り、遂に姜才は泰州に逃れて揚州城は陥落した。揚州の陥落後、史弼は僅か数騎を従えて城内に入り、内部を巡検することで城民には敵意がないことを示した。これらの功績により、史弼は昭勇大将軍・揚州路総管府ダルガチ・兼万戸に任じられた。同年冬には更に黄州等路宣慰使に移っている[5]

至元15年(1278年)、クビライの下に入朝し改めて中奉大夫・江淮行中書省参知政事に昇格となり、同年中には淮西の司空山の盗賊を討伐した。至元17年(1280年)、南康路都昌県の盗賊を討伐し、至元19年(1282年)には浙西宣慰使に任じられた。至元20年(1283年)、建寧においてシェ族の黄華が数十万の衆を率いて反乱を起こし、史弼はブリルギテイ高興劉国傑らとともにこれを討伐した[6]。反乱の鎮圧後、史弼は兵乱によって食料不足に陥った民に米10万石を与え、この食料分を増税しようとした福建行省に対しても「ここで増税を行えば民の信用を失ってしまう。私の俸給を止めてそれに足してほしい」と訴え、結果として住民は飢餓を免れることができたという[7]

至元26年(1289年)10月、台州の楊鎮龍の反乱を鎮圧し、尚書左丞・行淮東宣慰使に任じられた。この時、クビライは史弼を「自らの数少ない腹心の部下である」と述べ、初めてジャワ遠征の指揮を史弼に任せる考えを明かした。このクビライの言を受けて、史弼は「陛下が臣に(遠征を)命じるならば、臣はどうして我が身を惜しむことがありましょうか」と堂々と答えたという。至元27年(1290年)には処州の反乱を鎮圧し、やがてジャワ遠征の準備にとりかかることになった[8]

ジャワ遠征

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至元29年(1292年)12月、泉州を出航したジャワ遠征軍は外洋の荒波に苦しみつつ七洲洋(現在のパラセル諸島)、万里石塘(現在のマックルズフィールド堆)を過ぎると、一度インドシナ半島の大越国とチャンパー国の境界に上陸した[9]。至元30年(1293年)に入り、遠征軍は東董山(ナトゥナ諸島)・西董山(アナンバス諸島)・牛崎嶼(南ナトゥナ諸島)を経て南シナ海南部に入った。遠征軍はまず橄欖嶼(タンベラン諸島)・假里馬答(カリマンタン島)・勾闌(ゲラム島)等山に到着し、この地で小舟を建造しつつ軍議を行った[10][11]。1月18日にはゲラム島で軍議が行われ[12]イグミシュと孫参政はクチュカヤ・楊梓・全忠祖、万戸の張塔剌赤ら500の兵を率いて2月6日に先遣隊としてジャワを招論し[13]、2月13日に史弼ら主力軍は吉利門(カリムンジャワ諸島英語版)に向けて進軍することが決められた[14][15]

史弼らの軍団は遂にジャワ島のトゥバン英語版港に2月13日に到着し、軍議を開いて軍団を陸軍・水軍に分けて並進することを決めた[16]。史弼自身は水軍を率いて牙路港口(Janggala/現在のスラバヤ地方)を経て八節澗(パチェカン)に至り、イグミシュと高興もら歩兵・騎兵部隊を率いてこれに続いた[17]

一方、ジャワ島内部ではクディリ王家の末裔を称するジャヤカトン王がケルタナガラ王を弑逆しており、ケルタナガラ王の娘婿であるウィジャヤは協力してジャヤカトン王を討伐することを申し出た。ウィジャヤの申し出を受け容れた史弼らモンゴル軍は協力してジャヤカトン王の本拠のダハ(現在のクディリ)を攻略し、ジャヤカトン王を捕虜とした[18]。しかし、ダハの陥落後にウィジャヤはモンゴル軍を裏切ったため、史弼は自ら殿軍を務めて戦いながら退却し、300里を進んだところで舟に乗り込み、68日かけて泉州にまで帰還した。士卒の死者は3000を数える大敗ではあったが、一方でジャワで得た捕虜や金銀財宝、南巫里国など道中の諸国で献上された品などは無事に持ち帰ることができ、朝廷に献上された[19]。朝廷はジャワ遠征を得る所少なく失う物が多かったとし、史弼を杖刑に処し家産の3分の1を没収した[20]

晩年

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元貞元年(1295年)、クビライが死去し新たにオルジェイトゥ・カアン(成宗テムル)が即位すると、テムルの即位にも貢献した重臣のウズ・テムルがジャワ遠征失敗で失脚した史弼らの名誉回復を願い、これを受けて没収された家産の返還と栄禄大夫・江西等処行中書省右丞への復職が命じられた。延祐5年(1318年)、中書平章政事とされたが[21]、それから間もなく86歳にして亡くなった[22]

関連項目

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脚注

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  1. ^ 『元史』巻162列伝49史弼伝,「史弼字君佐、一名塔剌渾、蠡州博野人。曾祖彬、有膽勇、太師・国王木華黎兵南下、居民被虜、蠡守閉城自守、彬謂諸子曰『吾所恃者、郡守也。今棄民自保、吾与其束手以死、曷若死中求生』。乃率郷人数百家、詣木華黎請降、木華黎書帛為符、遣還。既而州破、独彬与同降者得免」
  2. ^ 『元史』巻162列伝49史弼伝,「弼長通国語、膂力絶人、能挽強弓、里門鑿石為獅、重四百斤、弼挙之、置数歩外。潼関守将王彦弼奇其材、妻以女、又薦其材勇於左丞相耶律鋳。弼従鋳往北京、近侍火里台見弼所挽弓、以名聞世祖。召之、試以遠垜、連発中的、令給事左右、賜馬五匹」
  3. ^ 『元史』巻162列伝49史弼伝,「中統末、授金符・管軍総管、命従劉整伐宋。攻襄樊、嘗出挑戦、射殺二人、因横刀呼曰『我史奉御也』、宋兵却退。至元十年、諸将分十二道囲樊城、弼攻東北隅、凡十四晝夜、破之、殺其将牛都統。襄陽降、上其功、賜銀及錦衣・金鞍、陞懐遠大将軍・副万戸。遂従丞相伯顔南征、攻沙洋堡、飛矢中臂、城抜、凝血盈袖、事聞、賜金虎符。軍至陽羅堡、伯顔誓衆曰『先登南岸者為上功』。弼率健卒直前、宋兵逆戦、奮呼撃走之、伯顔登南岸、論弼功第一、進定遠大将軍」
  4. ^ 『元史』巻162列伝49史弼伝,「鄂州平、進軍而東、至大孤山、風大作、伯顔命弼祷于大孤山神、風立止。兵駐瓜洲、阿塔海言『揚子橋乃揚州出入之道、宜立堡、選驍将守之』。伯顔授弼三千人、立木堡、拠其地。弼遽以数十騎抵揚州城、或止之曰『宋将姜才倔強、未可易也』。弼曰『吾柵揚子橋、拠其所必争之地、才乗未固、必来攻我、則我之利也』。才果以万衆、乗夜来攻、人挾束薪填塹、弼戒軍中無譁、俟其至、下櫑木、発砲石撃之、殺千餘人、才乃退、弼出兵撃之。会相威・阿朮兵継至、大戦、才敗走、擒其将張都統」
  5. ^ 『元史』巻162列伝49史弼伝,「十三年六月、才復以兵夜至、弼三戦三勝。天明、才見弼兵少、進迫囲弼、弼復奮撃之、騎士二人挾火鎗刺弼、弼揮刀禦之、左右皆仆、手刃数十百人。及出囲、追者尚数百騎、弼殿後、敵不敢近、会援兵至、大破之、才奔泰州。及守将朱煥以揚州降、使麦朮受其降於南門外、而弼従数騎、由保城入揚州、出南門、与之会、以示不疑。制授昭勇大将軍・揚州路総管府達魯花赤、兼万戸。冬、遷黄州等路宣慰使」
  6. ^ 植松1997,388頁
  7. ^ 『元史』巻162列伝49史弼伝,「十五年、入朝、陞中奉大夫・江淮行中書省参知政事、行黄州等路宣慰使。盗起淮西司空山、弼平之。十七年、南康都昌盗起、弼往討、誅其親党数十人、脅従者宥之。江州宣課司税及民米、米商避去、民皆閉門罷市、弼立罷之。十九年、改浙西宣慰使。二十一年、黄華反建寧、春復霖雨、米価湧貴、弼即発米十万石、平価糶之、而後聞于省、省臣欲増其価、弼曰『吾不可失信、寧輟吾俸以足之』。省不能奪、益出十万石、民得不饑。改淮東宣慰使、弼凡三官揚州、人喜、刻石頌之、号三至碑。遷僉書沿江行枢密院事、鎮建康」
  8. ^ 『元史』巻162列伝49史弼伝,「二十六年、平台州盗楊鎮龍、拜尚書左丞、行淮東宣慰使。冬、入朝、時世祖欲征爪哇、謂弼曰『諸臣為吾腹心者少、欲以爪哇事付汝』。対曰『陛下命臣、臣何敢自愛』。二十七年、遙授尚書省左丞、行浙東宣慰使、平処州盗」
  9. ^ 丹羽 1953,132頁
  10. ^ 丹羽1953,134-136頁
  11. ^ なお、『島夷志略』は「ゲラム島に到着したモンゴル軍は強風によってほとんどの舟を失ったために、この地で新たに舟を建造し病人などは置き去りにしてしまった」とする。しかし現地で建造した小舟のみで遠征軍全体をジャワ島まで運ぶことは不可能であり、島夷志略の記述は事実を誇張したものと見ざるを得ない。あるいは、ゲラム島に駐留した遠征軍の中の一分遣隊のみが強風被害を受け新たに小舟の建造を行ったのではないかと考えられる(丹羽1953,136-137頁)
  12. ^ 『国朝分類』巻41征伐爪哇,「三十年正月十八日、至拘欄山、議方略」
  13. ^ 『元史』巻210列伝97爪哇伝,「二月、亦黒迷失・孫参政先領本省幕官並招諭爪哇等処宣慰司官曲出海牙・楊梓・全忠祖・万戸張塔剌赤等五百餘人、船十艘、先往招諭之。大軍継進於吉利門」
  14. ^ 丹羽1953,137-138頁
  15. ^ 『国朝分類』巻41征伐爪哇,「二月六日、亦黒迷失・孫参政先領本省幕官並招諭爪哇等処宣慰司官曲出海牙・楊梓・全忠祖・万戸張塔剌赤等五百餘人、船十艘、往招諭。議定後七日、大軍継進於吉利門相候」
  16. ^ 『国朝分類』巻41征伐爪哇,「十三日、弼興進至爪哇之杜並足、与亦黒迷失等議、分軍下岸水陸並進」
  17. ^ 丹羽1953,145頁
  18. ^ 『元史』巻162列伝49史弼伝,「二十九年、拜栄禄大夫・福建等処行中書省平章政事、往征爪哇、以亦黒迷失・高興副之、付金符百五十・幣帛各二百、以待有功。十二月、弼以五千人合諸軍、発泉州、風急濤湧、舟掀簸、士卒皆数日不能食。過七洲洋・万里石塘、歴交趾・占城界、明年正月、至東董西董山・牛崎嶼、入混沌大洋橄欖嶼、假里馬答・勾闌等山、駐兵伐木、造小舟以入。時爪哇与隣国葛郎搆怨、爪哇主哈只葛達那加剌、已為葛郎主哈只葛当所殺、其婿土罕必闍耶攻哈只葛当、不勝、退保麻喏八歇。聞弼等至、遣使以其国山川・戸口及葛郎国地図迎降、求救。弼与諸将進撃葛郎兵、大破之、哈只葛当走帰国。高興言『爪哇雖降、倘中変、与葛郎合、則孤軍懸絶、事不可測』。弼遂分兵三道、与興及亦黒迷失各将一道、攻葛郎。至答哈城、葛郎兵十餘万迎敵、自旦至午、葛郎兵敗、入城自守、遂囲之。哈只葛当出降、並取其妻子官属以帰」
  19. ^ 丹羽1953,161頁
  20. ^ 『元史』巻162列伝49史弼伝,「土罕必闍耶乞帰易降表、及所蔵珍宝入朝、弼与亦黒迷失許之、遣万戸担只不丁・甘州不花、以兵二百人護之還国。土罕必闍耶於道殺二人以叛、乗軍還、夾路攘奪。弼自断後、且戦且行、行三百里、得登舟、行六十八日夜、達泉州、士卒死者三千餘人。有司数其俘獲金宝香布等、直五十餘万、又以没理国所上金字表、及金銀犀象等物進、事具高興及爪哇国伝。於是朝廷以其亡失多、杖十七、没家貲三之一」
  21. ^ 『元史』史弼伝では「元貞元年」の記事に続けて「三年」に中書平章政事に任命されたと記されており、これが「元貞三年」に行われた事のように見えるが、一方で『元史』仁宗本紀では延祐5年に史弼を中書平章政事に任じたとの記録が見られる(『元史』巻26仁宗本紀3,「[延祐五年夏四月]甲寅……以千奴・史弼並為中書平章政事、侍御史敬儼為中書参知政事」)。丹羽友三郎は「元貞三年」は中途改元によって「大徳元年」とされていることを指摘し、『元史』仁宗本紀の記述の方が正しいと指摘している。
  22. ^ 『元史』巻162列伝49史弼伝,「元貞元年、起同知枢密院事、月児魯奏『弼等以五千人、渡海二十五万里、入近代未嘗至之国、俘其王及諭降傍近小国、宜加矜憐』。遂詔以所籍還之、拜栄禄大夫・江西等処行中書省右丞。三年、陞平章政事、加銀青栄禄大夫、封鄂国公、卒於家、年八十六」

参考文献

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  • 元史』巻162列伝49史弼伝
  • 植松正『元代江南政治社会史研究』汲古書院〈汲古叢書〉、1997年。ISBN 4762925101国立国会図書館書誌ID:000002623928 
  • 丹羽友三郎『中国・ジャバ交渉史』明玄書房、1953年