ブリルギテイ
ブリルギテイ(モンゴル語: Bürilgitei、中国語: 卜憐吉歹、生没年不詳)は、大元ウルスに仕えた将軍・政治家。
『元史』などの漢文史料では卜憐吉帯(bŭliánjídài)、不隣吉帯(bùlínjídài)と記されるが、原音はBürilgiteiであると考えられている[1]。
概要
[編集]ブリルギテイはチンギス・カンに仕えて活躍したスブタイの孫、南宋遠征の司令官として活躍したアジュの息子として生まれた。スブタイは「四狗」の一人と称されたチンギス・カンの最側近の一人、その息子のウリヤンカダイは雲南平定・ヴェトナム侵攻の功労者、その息子のアジュは南宋平定の副将格として活躍するなど、いずれも抜群の武功を残したモンゴル屈指の武門の名家であった。
ブリルギテイが史料上に現れ始めるのは至元20年(1283年)からのことで、この年建寧路で起こった畲族の黄華の叛乱鎮圧に史弼とともに派遣された[2]。黄華の軍勢は10万と号する大軍であり、頭陀軍とも称して南宋の復興を掲げていたが、ブリルギテイらは2万5千の兵を率いてこれを平定した[3][4]。
至元22年(1291年)11月、江淮行省平章政事として東海岸地域の防備について以下のように上奏している[5][6]。
はじめ、丞相バヤンおよび元帥アジュ、アタカイらが行省を守った時、各路に軍を置いて駐屯させましたが、その際、土地の重要性を勘案して、駐屯軍の兵数を加減しました。この後、マングダイがこれ(バヤン、アジュ、アタカイら)と交代し、ことごとく駐屯軍の制度を変更して、将官(軍官)や士卒を配置がえし、はなはだ宜しくありません。今、福建の盗賊(反乱)はすでに平定されましたが、ただ浙東道だけは、土地は辺鄙極悪で、賊が巣穴としている所ですから、ふたたび三万戸を帰還させて、そこ(浙東道)を守備させていただきたい。[具体的には、万戸]カラタイ(合剌帯)の軍は、沿海と明州・台州に駐屯し、[万戸]イキレス(亦怯烈)の軍は、温州・処州に駐屯し、[万戸]ジャクタイ(札忽帯)の軍は紹興・婺州に駐屯する。ところで、寧国・徽州では駐屯軍に当初、現地の兵卒(土兵)を使いましたが、後にみんな賊と内通したので、今ことごとくこの兵卒を長江以北に移し、あらためて高郵・泰州の二万戸の漢軍を移動してここ(寧国州)に駐屯させる。揚州・建康・鎮江の三都市は、長江を跨ぐかたちで位置し、人口も多いので七万戸府を設置する。杭州は行省の諸部門の倉庫がある所なので、四万戸府を設置する。水戦に備えた制度は、もとは十箇所にとどまっていた。いま、海に面し江に沿う要害二十二箇所を選んで、兵員を分けて軍事演習(閲習)し、もろもろの盗賊の様子を探る。銭塘は海港(海口)を押さえる所で、もとは戦艦二十艘を設置していましたが、少ないために、海賊が時々出現し、船を奪い人を殺しています。今、戦艦百艘 ・海船二十艘を増やし設置すれば、その故に海賊も敢えて出ようとしないしょう」と。 — ブリルギテイ、『元史』巻16及び巻99[7]
この上奏では前年に職を辞したマングダイによる江南駐屯軍の配置換えを改悪であると非難しており、ブリルギテイの意見を認めたクビライによって江南駐屯軍は再度配置換えを行うこととなった[8]。
至元26年(1289年)、黄華と同じく畲族であった鍾明亮に呼応する形で婺州の賊5万が武義県を掠奪したため、ブリルギテイがこれを討伐した[9][10]。至元30年(1293年)2月頃には江淮行枢密院の職に就いており[11]、至元31年(1294年)にはカルルク兵及びかつてナヤンの乱に荷担していた者達700名余を率いて水上戦闘を習練するよう命じられている[12]。クビライが亡くなり、オルジェイトゥ・カアン(テムル)が即位した後もしばらくは江淮行枢密院に属していたが、オルジェイトゥ・カアンの治世の末には河南行省丞相の地位に即いた。ブリルギテイが江南方面から河南行省に転任となったのは、スベエテイ家が始祖スベエテイが汴梁攻略に携わって以来汴梁を本拠地としていたためと考えられる[13]。河南行省丞相としては、王約の活動を支援したことなどが知られている[14]。
大徳11年(1307年)、オルジェイトゥ・カアンが亡くなるとその妻のブルガンは自らの権力を守るため、最も血統的に帝位に近いカイシャン、アユルバルワダ兄弟ではなく安西王アーナンダを帝位に即けようと図った。これに反発したハルガスンら反ブルガン派官僚は密かに懐州に居住するアユルバルワダとその母のダギに使者を送り、アユルバルワダを擁立して宮廷クーデターを起こす計画を始めた。ダギ、アユルバルワダによって協力者として集められたのがチャガタイ家のトレ、ナンギャダイ、そしてブリルギテイらであり、彼等はクーデターを成功させて一旦はアユルバルワダが最高権力者の地位に即いた[15]。ところがアユルバルワダの兄のカイシャンも同時期に報せを受けて帝位に即くべく行動を始めており、モンゴリアで強大な軍団を率いるカイシャン派にアユルバルワダ派は譲歩せざるを得ず、結局はカイシャンがクルク・カアン(武宗)として即位した。そのため、宮中クーデター成功の立役者の一人であるはずのブリルギテイはクルク・カアン政権下ではあまり栄達できなかった。
その後、クルク・カアンが急死しアユルバルワダがブヤント・カアンとして即位すると、皇慶元年(1312年)に中央の要職につけるべきだとの上奏が王約により出され[16]、延祐元年(1314年)、ブリルギテイは河南王とされた[17]。当時としては皇族でなく、準皇族のキュレゲン(女婿)でもない臣下が王号を授与されるのは異例のことであり、ブヤント・カアンのブリルギテイへの信任ぐあいが窺える[18]。また別の機会には、ブヤント・カアンはハルガスン、ブリルギテイ、ナンギャダイらの助言を聞いたからこそ帝位に即くことができたと語っている[19]。
ブリルギテイは遅くとも天暦2年(1329年)以前には亡くなっているが、晩年の事蹟についてはほとんど記録が残っていない。ただし、元末に陶宗儀によって編纂された『輟耕録』には河南行省丞相時代のブリルギテイの鷹揚さを示すエピソードが収録されている。『輟耕録』によると、ブリルギテイが河南行省の丞相を務めていたある時、田栄甫という吏が決済のため印をもらいに訪れたが、ブリルギテイはこれを宴会に誘った。宴の最中にブリルギテイは印を箱から取り出させたが、田は誤ってこれを落としてしまい、印はブリルギテイの服の上に落ちた。この日、たまたまブリルギテイは新調したばかりの服を着ており、服は朱色に汚れたが、ブリルギテイは全く動じず歓談を続けたという[20]。
子孫
[編集]屠寄は『蒙兀児史記』において1320年代頃に「代々河南において高官であった」と称される「童童(Tongtong)」がブリルギテイの後継者であったとする[21]。童童は泰定4年(1327年)に河南行省平章政事[22]、至順2年(1331年)に江浙行省平章政事[23]・太禧宗禋院使[24]を務めており、ブリルギテイがかつて赴任していた地域を歴任している。ただし、『元史』の本紀では童童は常に御史台から「奸利をなし」、「淫侈不潔」であったとして弾劾を受けており、朝廷と摩擦を抱えていたと見られる[25]。
ウリヤンカン部スブタイ家
[編集]- 千人隊長スブタイ(Sübe'etei >速別額台/sùbiéétái,سوبداى/sūbdā'ī)
- 大元帥ウリヤンカダイ(Uriangqadai >兀良合台/wùliánggĕtái,اوريانكقداى/ūrīānkqadāī)
- 都元帥ココチュ/ココテイ(Kököčü/Kökötei >闊闊帯/kuòkuòdài,كوكچو/kūkuchū)
- 都元帥・中書左丞相アジュ(Aju >阿朮/āzhú,آجو/ājū)
- 河南王ブリルギテイ(Bürilgitei >卜憐吉帯/bŭliánjídài)
- 江浙行省平章政事トントン(Tongtong >童童/tóngtóng)
- 河南王ブリルギテイ(Bürilgitei >卜憐吉帯/bŭliánjídài)
- 大元帥ウリヤンカダイ(Uriangqadai >兀良合台/wùliánggĕtái,اوريانكقداى/ūrīānkqadāī)
脚注
[編集]- ^ ジュヴァイニーが同名の人名をペルシア語で記録しており、これに従ってBürilgiteiと音写するのが正しいと考えられている(堤2000,216頁)
- ^ 堤2000,204頁
- ^ 『元史』巻12世祖本紀9,「[至元二十年冬十月]庚子……建寧路管軍総管黄華叛、衆幾十万、号頭陀軍、偽称宋祥興五年、犯崇・安・浦城等県、囲建寧府。詔卜憐吉帯・史弼等将兵二万二千人討平之」
- ^ 植松1997, p. 388.
- ^ 『元史』巻16世祖本紀13,「[至元二十七年十一月]戊申……江淮行省平章不憐吉帯言『福建盗賊已平、惟浙東一道、地極辺悪、賊所巣穴。復還三万戸、以合剌帯一軍戍沿海明・台、亦怯烈一軍戍温・処、札忽帯一軍戍紹興・婺。其寧国・徽、初用土兵、後皆与賊通、今以高郵・泰両万戸漢軍易地而戍。揚州・建康・鎮江三城、跨拠大江、人民繁会、置七万戸府。杭州行省諸司府庫所在、置四万戸府。水戦之法、旧止十所、今択瀕海沿江要害二十二所、分兵閲習、伺察諸盗。銭塘控扼海口、旧置戦船二十艘、故海賊時出、奪船殺人、今增置戦船百艘・海船二十艘、故盗賊不敢発』。従之」
- ^ 『元史』巻99兵志2,「二十七年……十一月、江淮行省言「先是丞相伯顔及元帥阿朮・阿塔海等守行省時、各路置軍鎮戍、視地之軽重、而為之多寡、厥後忙兀台代之、悉更其法、易置将吏士卒、殊失其宜。今福建盗賊已平、惟浙東一道、地極辺悪、賊所巣穴、請復還三万戸以鎮守之。合剌帯一軍戍沿海・明・台、亦怯烈一軍戍温・処、札忽帯一軍戍紹興・婺州。其寧国・徽州初用土兵、後皆与賊通、今尽遷之江北、更調高郵・泰州両万戸漢軍戍之。揚州・建康・鎮江三城、跨拠大江、人民繁会、置七万戸府。杭州行省諸司府庫所在、置四万戸府。水戦之法、旧止十所、今択瀕海沿江要害二十二所、分兵閲習、伺察諸盗。銭塘控扼海口、旧置戦艦二十艘、今增置戦艦百艘、海船二十艘」。枢密院以聞、悉従之」
- ^ 訳文は堤1998,192-193頁より引用
- ^ 『元史』巻131列伝18忙兀台伝,「忙兀台之在江浙、専愎自用、又易置戍兵、平章不憐吉台言其変更伯顔・阿朮成法、帝毎誡勅之。既死、台臣劾郎中張斯立罪状、而忙兀台迫死劉宣及其屯田無成事、始聞於帝云」
- ^ 『元史』巻15世祖本紀12,「[至元二十六年閏十月]丙申……婺州賊葉万五以衆万人寇武義県、殺千戸一人、江淮省平章不憐吉帯将兵討之。遣使鉤考大同銭穀及区別給糧人戸」
- ^ 植松1997, p. 394,419.
- ^ 『元史』巻17世祖本紀14,「[至元三十年二月]丙申、却江淮行枢密院官不憐吉帯進鷹、仍勅自今禁戢軍官無従禽擾民、違者論罪」
- ^ 『元史』巻18世祖本紀15,「[至元三十一年九月]庚申、以合魯剌及乃顔之党七百餘人隷同知枢密院事不憐吉帯、習水戦」
- ^ 堤1992,37頁
- ^ 『元史』巻178列伝65王約伝,「先是、至大間尚書省用建言者、冒献河・汴官民地為無主、奏立田糧府、歳輸数万石、是歳詔罷之、竄建言人於海外、命河南行省復其旧業。行省方並縁為奸、田猶未給。約至、立期檄郡県、釐正如詔。会詔更銅銭銀鈔法、且令天下税、尽收至大鈔。約度河南歳用鈔七万錠、必致上供不給、乃下諸州、凡至大・至元鈔相半。衆以方詔命為言、約曰『吾豈不知、第歳終諸事不集、責亦匪軽』。丞相卜憐吉台讃之曰『善』。遣使白中書、省臣大悦、遂遍行天下」
- ^ 『元史』巻131列伝18嚢加歹伝,「成宗崩、昭献元聖太后与仁宗在懐州、太后召嚢加歹・不憐吉歹・脱因不花・八思台等諭之曰『今宮車晏駕、皇后欲立安西王阿難答、爾等當毋忘世祖・裕宗在天之霊、尽力奉二皇子』。嚢加歹頓首曰『臣等雖砕身、不能仰報両朝之恩、願効死力』。既至京師、仁宗遣嚢加歹与八思台詣諸王禿剌議事宜。時内外洶洶、猶豫莫敢言、嚢加歹独賛禿剌、定計先発。帰白仁宗、意猶遅疑、固問可否、対曰『事貴速成、後将受制於人矣』。太后与仁宗意乃決。内難既平、仁宗監国、命同知枢密院事」
- ^ 『元史』巻178列伝65王約伝,「皇慶改元元日……約首奏『河南行省丞相卜憐吉台、勲閥旧臣、不宜久外』。召至、封河南王」
- ^ 『元史』巻25仁宗本紀2,「[延祐元年]六月戊子……封河南省丞相卜憐吉帯為河南王」
- ^ 堤2000,205-206頁
- ^ 『元史』巻137列伝24察罕伝,「顧李孟曰「知止不辱、今見其人。朕始以答剌罕・不憐吉台・嚢加台等言用之、誠多裨益。有言察罕不善者、其人即非善人也」
- ^ 『輟耕録』河南王の条,「河南王不隣吉歹為本省丞相時、一日、掾吏田栄甫抱牘詣府請印、王留田侍宴、命司印開匣取印至前。田誤触墜地、王適更新衣、而印朱濺汚満襟。王色不少動、歓飲竟夕。又一日行郊、天気且暄。王易涼帽左、右捧笠侍。風吹堕石上、撃砕御賜玉頂。王笑曰『是有数也』。諭令毋懼。噫、此其所以為丞相之量」
- ^ ただし、童童がブリルギテイの息子であると明言した史料はなく、屠寄の記述は傍証証拠による推論に過ぎないと見られる(堤1992,37頁)
- ^ 『元史』巻30泰定帝本紀2,「[泰定四年八月]壬辰、御史李昌言『河南行省平章政事童童、世官河南、大為奸利、請徙他鎮』。不報」
- ^ 『元史』巻35文宗本紀4,「[至順二年三月]癸巳……監察御史劾江浙行省平章童童荒泆宴安、才非輔佐、詔免其官」
- ^ 『元史』巻35文宗本紀4,「[至順二年八月]癸巳……御史台臣劾太禧宗禋使童童淫侈不潔、不可以奉明禋」
- ^ 堤1992,39頁
参考文献
[編集]- 植松正『元代江南政治社会史研究』汲古書院〈汲古叢書〉、1997年。ISBN 4762925101。国立国会図書館書誌ID:000002623928。
- 堤一昭「元代華北のモンゴル軍団長の家系」『史林』75号、1992年
- 堤一昭「元朝江南行台の成立」『東洋史研究』第54巻4号、1996年
- 堤一昭「大元ウルスの江南駐屯軍」『大阪外国語大学論集』第19号、1998年
- 堤一昭「大元ウルス江南統治首脳の二家系」『大阪外国語大学論集』第22号、2000年
- 『新元史』巻122列伝19
- 『蒙兀児史記』巻91列伝73