古田広計
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古田 広計(ふるた ひろかず、宝暦7年(1757年) - 天保3年閏11月8日(1832年12月29日))は、江戸時代の武士、国学者、茶人。豊後(現・大分県)岡藩の老職。通称は壱岐、勘解由、中務など。字は弘卿。号は不染斎、淵黙、温故堂。母は公家の竹屋光兼(正三位)の娘。
生涯
[編集]古田織部の娘の子孫で、別家(覚左衛門重宗系)古田広在の次男として生まれ、従兄弟の古田重著(400石)の養子となる[1]。岡藩主・中川久貞、久持、久貴の三代に仕える。安永5年(1776年)創設の藩校・由学館の副学正を務める。文化6年(1809年)には永年の功績が認められて1000石取りの老職となる。
文化8年(1811年)、広計が取り立てた横山甚助の藩政改革が失敗し、岡藩領内で大規模な百姓一揆が勃発。藩主・久貴は農民の要求を受け入れ、翌文化9年(1812年)に横山甚助は罷免、広計は隠居させられ一揆は鎮まった。広計の晩年は豊後三木村(豊後大野市大野町杉園三ツ木)において閑居し、天保3年(1832年)閏11月8日に76歳で没した。
人物
[編集]国学を江戸にいた村田春海、加藤千蔭に学んで精通し、肥後の国学者長瀬真幸と交わった。また和歌、国文に長じた。山鹿流の兵学もよくし、茶の湯にもすぐれ、不白流のあと血縁を意識して織部流を学んだ。
著作に「不染斎歌集」「不染斎随筆」などがある。
脚注
[編集]- ^ 「豊後古田家譜」